活動内容

第101回研究発表会報告、蔦谷 美砂子会員、吉岡 央会員(19.4. 22)

第101回研究発表会報告、蔦谷 美砂子会員、吉岡 央会員(19.4. 22)

◆日 時:平成31年4月22日 午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1. 幕末維新秘話「京都・本圀寺事件」

       -鳥取藩に関わる二つの事件とその顚末- 蔦谷 美砂子会員

      2.「四条通の市電と鉄道」 吉岡 央会会員

◆参加人数:48名

 

第1部は、幕末維新秘話「京都・本圀寺事件」-鳥取藩に関わる二つの事件とその顚末- 蔦谷 美砂子会員です。

 

 今から156年前の幕末に、京都の本圀寺で起きた事件と、その3年後に島根県の手結浦(たいのうら)で起きた事件の経緯とその顚末についてお話ししました。私は出身が鳥取県で、私の父方の高祖父とその兄がこの二つの事件の当事者の一人です。

本圀寺事件(本圀寺の暗殺事件)とは‥ 

 文久3年8月17日(八月十八日政変の前夜)、京都本圀寺塔頭(本実院ほか)で、鳥取藩主 池田慶徳(徳川斉昭の五男で徳川慶喜の兄)の側近であった重臣4名が、同じ鳥取藩の過激攘夷派 河田左久馬ら二十二士によって襲撃・斬殺された事件です。犠牲となった重臣(御側役)4名のうちの一人 早川卓之丞が私の高祖父の兄でした。

手結浦事件(手結浦の仇討事件)とは‥ 

本圀寺で暗殺された重臣4名の遺族(18名)が、本圀寺事件の3年後に、幽閉先の鳥取藩から脱走して長州へ向かう二十士を追い、松江藩の手結浦(現 松江市鹿島町)に残留していた4士に対し仇を討った事件です。私の先祖にあたる二宮一草(早川卓之丞の実父・73歳)、二宮午之助(卓之丞の実弟で私の高祖父・33歳)、早川久之助(卓之丞の長男・22歳)の3名が仇討に参加しました。

 二つの事件後、時代は転換します。長州に逃れた残る16士は戊辰戦争で活躍し、多くは官職に就くなど栄達します。中でも二十二士のリーダーであった河田左久馬は初代鳥取県県令(現在の知事に相当する役職)となります。

鳥取藩に関わるこの二つの事件は、あまり語られることのない幕末維新の秘話ですが、近代国家への礎となった出来事の一つでもあると思います。

 

平成30年1月20日 日本海新聞 西郷の手紙

一般的には、幕末維新をリードし倒幕の原動力となった雄藩は「薩長土肥」と言われていますが、昨年、西郷隆盛の未知の書状(鳥羽伏見の戦いの10日前に鳥取藩の新政府への参加を問う書状)が公開され、鳥取藩が果たした(藩主慶徳が徳川慶喜と兄弟であるにもかかわらず、いち早く薩長側で参戦した)幕末維新史を見直す機運が高まっています。薩摩藩と長州藩に鳥取藩(因幡)と岡山藩(備前)が加わり、明治維新は「薩長因備」により開かれたとする説もあります。

 幕末維新の主役であった志士たちは、主義・主張の違いはあっても、命を投げ出して国家や藩のために尽くそうとする高い意識と行動力を備えていたという点で共通していました。今回の調査・研究を通して、どんな困難にも屈せず逞しく生き抜いた先祖の存在を知り、今の私が存在しているのだということを再認識しました。 

 

「御花畑」の研究家 原田 良子氏

 

 薩長同盟150年目の2016年に、薩長同盟締結の地「御花畑」(近衛家別邸・小松帯刀寓居)の場所を特定された研究家の原田良子先生が、研究発表会当日、聴講に来てくださいました。 原田先生は、昨年(平成30年)4月の「薩長因備シンポジウム」(於 鳥取県立博物館)、9月の「明治150年絆フォーラム(山国隊)」(於 二条城)にパネリストとして参加しておられ、鳥取歴史振興会のメンバーで早川卓之丞の子孫でもある美田眞一氏より今回のことをお聞きになったそうです。思い掛けないことで大変緊張いたしました。(会員 蔦谷 美砂子)



第2部は、「四条通の市電と鉄道」 吉岡 央会員 です。

 四条通 (四条大路) は平安京を南北にほぼ2等分する位置にあり、現在でも商業・金融・娯楽・文化と多方面に亘って市民と接触できる施設を提供している。

 ここに鉄道が初めて敷設されたのは四条通の南北横断踏切になるが明治30年4月開業の京都鉄道 (現JR山陰線)である。又四条通の東西方向としては明治35年10月に路面電車として、京都電気鉄道 (旧京都市電堀川線) が開業している。

 また四条通には我国鉄道史上本格導入初例としてトロリーバス (無軌条電車 四条大宮・西大路四条間 1.6Km) が昭和7年4月に開業している。ここにトロリーバスが導入された経緯は京都市として四条大宮以西にも市電を開業させたい計画があった。ここで問題となったのがJR山陰線との横断方法であった。JR山陰線は旧国鉄の路線であった為に同線と平面直角に横断する鉄道は認められなかった。

また新京阪鉄道 (現阪急京都線)が将来の乗客増加を予想して(西院・河原町間)に地下鉄敷設工事計画を大正15年9月に京都市と締結した。この為市電をJR山陰線と地下交叉 (アンダーパス) させることは不可能になった。更に別案として市電を高架橋通過としてJR山陰線を跨ぐ方法もあったが、時あたかも昭和恐慌直後の財政緊縮時代、工事予算を節約するために平面横断となり当時欧米でも普及し始めたトロリーバスに白羽の矢が立った。市域の拡大や、市電梅津線の廃止に伴い同トロリーバス路線は松尾橋東詰まで西進されたが、ディーゼルバスの性能向上、架線保守の手間、トロリーバス車体の汎用の低さ等が考慮されて結局昭和44年10月に廃止された。

 添付資料としては、「祇園祭と市電の架線 (電線) 」。更に昭和37年の祇園祭山鉾巡行は阪急河原町地下鉄延長工事の為に中止になりそのことを報じた新聞記事と関連写真を紹介した。研究発表会最後の質疑応答のコーナーでは身近であった市電の各種質問や人気の祇園祭山鉾巡行の事などで沢山の方が意見を出されて珍しく盛り上がり楽しいエンディングとなった。(会員 吉岡 央)

 

(広報部 岸本 幸子)

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