第99回研究発表会報告、石田 一雄 会員、堂園 光子会員(19.2. 22)
第99回研究発表会報告、石田 一雄 会員、堂園 光子会員(19.2. 22)
◆日 時:平成31年2月22日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「和菓子のルーツを探る」 石田 一雄 会員
2.「古事記はおもしろいⅨ」 堂園 光子会員
◆参加人数:24名
第1部は、「和菓子のルーツを探る」 石田 一雄 会員です。
和菓子のルーツをたどると、日本固有のものとして、木の実・果物や餅・団子があった。その後外国から様々な菓子がもたらされた。飛鳥時代から平安時代にかけて「唐菓子」、鎌倉時代から室町時代にかけて「点心(羊羹・饅頭)」、戦国時代から江戸時代初期にかけて「南蛮菓子(カステラ・ボーロ)」がもたらされ、江戸時代中期頃「和菓子」が完成していった。和菓子の名称は、明治になって「洋菓子」が入ってきてから、それに対応する言葉として生み出された。
果物の中で「タチバナ」は特別のもの。垂仁天皇の勅命を受けた田道間守(たじまもり)が、10年間の苦労の末に常世の国から不老不死の霊菓「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を持ち帰った。この実が「橘(たちばな)」で既に天皇は亡くなられていたため、田道間守は天皇の御陵に橘を捧げて嘆き死んだという。これが菓子の始まりとされ、田道間守は、菓祖(神様)として祀られている。
饅頭のルーツは2つある。「酒饅頭(虎屋饅頭) 」は聖一国師(円爾弁円)が仁治2年(1241)中国から帰国後、博多の茶店主人・虎屋・栗波吉右衛門に教えた。(現在は京都のとらやが受け継ぐ) 「薯蕷饅頭(上用饅頭))は貞和5年 (1349)渡来した元人・林浄因が奈良で作り始めた。
林浄因は奈良の「林神社」(漢国神社内)で饅頭の神様として祀られている。毎年4月19日に製菓業者が集まり、饅頭祭が行われている。その子孫が東京築地の塩瀬総本家である。
そのほか、練羊羹は1589年(天正17)に、駿河屋の5代目岡本善右衛門によりつくられた。八ッ橋のルーツは、八橋検校の箏に似せたせんべい状の焼き菓子から始まったという「楽器説」と、伊勢物語にある三河の国の八橋にかけて作られたという「三河の橋説」がある。
京都には和菓子の老舗が多く最古の店は平安時代にまでさかのぼるといわれる。(会員 石田 一雄)
第2部は、「古事記はおもしろいⅨ」堂園 光子会員 です。
今回は、雄略天皇から武烈天皇までをお話しさせていただきました。
これで「古事記はおもしろい」シリーズを終わらせていただきます。
「古事記」は推古天皇までが記されていますが、具体的なことは顕宗天皇までで、その後の天皇については詳しく書かれていません。このあとは「日本書紀」をベースに天皇ごとの日本の歴史を発表したいと思っております。
次回は「継体天皇から欽明天皇まで」を発表させていただく予定です。
長い間「古事記はおもしろい」を聞いていただきありがとうございました。(会員 堂園 光子)
H25年7月から始まり9回に分け6年かけてじっくりとお話していただきました。最初に「古事記を読むコツは307の多くの神様がいらっしゃいますが211の神様は一度登場した後、二度とでてきません。差引96の神様の内約30の神様だけを理解するとおもしろく読めます。」と教えていただいたことが印象的でした。確かにそのことにより理解度が進みました。
そしてこの研究発表会の場だけでなく井筒八つ橋まちかど案内所や高齢者大学校の講座でもお話していただきました。古事記はおもしろい古典という解釈で、原文を読みながら現代語でわかりやすい説明をしていただきました。ありがとうございます。
(広報部 岸本 幸子)