第81回研究発表会報告、菊井 俊彦会員・古山 精一氏(16.04.14)
第81回研究発表会報告、菊井 俊彦会員・古山 精一氏(16.04.14)
◆日 時:平成28年04月14日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「京都町中に生きる神さん・仏さん(その2)」 菊井 俊彦会員
2.「道昌と広隆寺の復興」古山 精一氏
◆参加人数:29名
◆参加費 :500円 一般参加費 :700円
第1部は菊井 俊彦会員より京都 町中に生きる神さん・仏さん(その2)
昨年の4月に発表から1年がたちました。昨年は現認できたのが56町でしたが、今年は88町に増え、
目標の100町までもう少しとなりました。その段階で層別をかけて、京都の地域的な文化の違いが読
みとれないかと考えています。周っているなかで、祠の先行きに不安をお持ちの町内がかなりありました。
一番は守る方の老齢化です。次が居住人口の減少で、後継者・費用負担などに関わってきます。
京都の都市化の波が、京都の文化の根源である町に大きくのしかかっているようです。
備前島町の岬神社は通称土佐稲荷と呼ばれていますが、鴨川の中島に祀られていたものが、江戸時代に
土佐藩邸に鎮守として遷座されたためです。しかし、明治20年、近江屋の初代井口新助によって現在地に
移転されました。現在は奉賛会によって祀られています。
宗像神社境内の少将井神社は、天正年間、宮本町に移転させられた少将井の跡地に祀られた少将井神社が明治
3年に遷座されたものです。現在も少将井御旅町によって守られていて、後祭の7月24日に祭事が行われて
います。私も今年は参列させていただきます。
岩上町の中山神社は別名岩上宮とも呼ばれ、元冷泉院に祀られていた岩神が中山忠親邸跡に遷座したものと
いわれています。そのためか、天理市布留の石上神宮からも神職が参列されます。「岩神さん」には多くの
由来伝承が地誌類に記されていまして、大黒町の岩上神社もこのお話に繋がっています。古地図によっても、
幕末期まで岩上さんが大黒町に存在していたこ
とは裏付けられます。明治に入り、岩神座→松竹→千切屋→渡文と土地の所有者が変遷し、現在は渡文よって
整備・復興が計画されています。
明治時代、頼政神社が貝屋町にありました。品川弥二郎が吉田松陰の遺言を受けて、貝屋町に土地を求め
「尊攘堂」を作りました。この土地が源三位頼政公の館跡と聞いて、錦天満宮の神官大和助昆と相談のうえ
邸内の一隅に頼政神社を建立しました。
品川弥二郎の死後、尊攘堂の遺品は京都大学に寄贈されて、現在も大切に保管されています。
頼政神社は、敷地を現在の銀行協会に譲渡するときに、当時の代表者である田中源太郎に後事を託すことを
依頼しましたので、毎年、一之船入町の銀行協会で祭祀されています。一般の参列はさせてもらえません。
長年、袋小路の中にあった観世井が観世家の所有に戻ったのは大正期です。
昨年、観世稲荷の諸施設は新しくなりました。奉賛会によって守られていますが、皆さん観世流の関係者です。
なお、御神饌には鶴屋吉信の「観世井」が使われています。
今後とも、忘れられていくもの、失われていくものを記録に残していきたいと思っています。
有難うございました。
(記事 菊井 俊彦)
第2部は古山 精一氏より道昌と広隆寺の復興
広隆寺は飛鳥瓦が出土する古い寺で、それだけに北野廃寺との関係など、歴史的に興味深い問題が存在します。
その広隆寺は、平安遷都まもなく大別当が縁起等の文書を持って逃亡するという内部騒動が起こり、追打ちを
かけたように818年(弘仁9)年4月、火災により伽藍のほとんどを焼失します。
この広隆寺を復興したのが讃岐国の秦氏出身で、別当となった道昌でした。
空海の弟子でもありましたが独自の道を行き、朝廷の信頼を得るなど、22年をかけて再建、858(天安2)年
に落慶供養を行ったようです。
本講では、平安期以前の事には簡単に触れるだけにして、「広隆寺縁起資財帳」(873・貞観15年)、
「広隆寺資財交替実録帳」(890・寛平2年)などをもとに、道昌が復興した広隆寺の伽藍を推定復元することを
中心として、広隆寺の歴史を概観します。
また広隆寺付近の6度西へ傾く地割が、「大覚寺」、「仁和寺」付近に見られ、また「双ヶ岡南西部」の坪付が
合致することから葛野郡北部に広く分布していたらしいこと。
さらに建築史的に見て、前(孫)庇を礼堂とし、「半蔀」が交代実録帳に記載されるなど、奈良時代の仏堂から
平安時代の仏堂への変遷を知る貴重な寺院であることを説明しました。
(記事 古山精一)