活動内容

第47回研究発表会(13.2.11)

 第47回研究発表会(13.2.11)

◆日 時:平成25年2月11日午後1時15分~午後4時
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.『千本通と長坂越』都草会員 菊井俊彦
2.『罪人のひき廻しのこと(江戸時代)』都草会員 高木清
◆参加人数:45名
◆参加費 :300円   一般参加費 :500円
 
 第1部は自分なりの勉強を始めて5年目になり着実に目標に向かって研究を重ねている菊井俊彦会員です。最低でも80才までは調べ続けるという意欲に刺激を受けます。市川団十郎さんの追悼番組から努力を続けていく大切さを改めて感じられたようです。
 
 今回のお話は町を歩いてご縁のあった方々からの話ではなく読んだ本の中で鷹ヶ峰に明治23年に新道が開かれ、それが周山街道と呼ばれていた。という話を読み周山街道という言葉が鷹ヶ峰界隈でまだ生きているかどうか?そのことを知るために、まず京見峠茶屋に行きました。
 

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膝を痛めてしまうほどの急な長坂があり、新道は光悦寺の西北に直角に上る道があります。京見峠から長坂・鷹ヶ峰の急な坂道コースと、杉坂から供御飯峠・小野郷コースの2つのルートで歩いてみました。長坂を降りて感じることはこんな坂を登るのか?ということです。松野醬油さんではいまだに御用聞きでお客さんのご要望に応えていらっしゃって感激した。
小野郷の銀杏の木はきれいで、NHKのニュースを見た翌日行った。こんなに綺麗な銀杏になるのにはどんな1年を過ごすのかが気になり1月から12月まで毎月通い、そして4月に殻が開きはじめ芽が伸びはじめるところを観察できたことに感動しました。地元の方の話では明治のはじめ鷹ヶ峰から大宮街道にかけての賑わいは凄かったようです。
 

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 疑問に対する答えは長坂越えの道は長坂を下り最初は紙谷川沿いの自然の道として大北山街道が使われていたものと思われます。しかし運輸・商業の発展と共に商業の中心地への近道として鷹ヶ峰に登る道を選択したのではないでしょうか。現在鷹ヶ峰に登る直線の急な道は光悦村開発時に始まるとされていて当時はその横を蛇行して登る細い道が利用されていたようです。こうして鷹ヶ峰から上野街道を通り大宮街道に入って行ったのでしょう。この後、船岡山や内野が戦乱の主戦場となってきます。そのような中で鷹ヶ峰道が主要な道になっていったのではないでしょうか。と考えております。
 

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 第2の疑問に対しては御土居の造成が関わってきます。御土居の造成によって道が統制され、戦場が無くなり商業・運輸が発展する中では上野街道から大宮街道への道が主要道になったようです。江戸時代の地図によると千本通の上品蓮台寺の北と南に門があり、北側に長坂口とあります。南側は千本村とあり当時の千本は葬送の地であったことにより、人々が多く行きかう道ではなかったのではないでしょうか?現在は沿道の景観の財産が失われ、昭和37年の京都の風景が今は見られなくなっています。
 
 

 
 第2部は高木清会員で江戸時代の「罪人の引き廻し」です。今までの研究発表とはちょっと毛並みの違う内容できわどい話もあります。京都の魔界の本を見ていたら引き廻しのことについての話がありました。
 
 弁護士の立場から刑罰に直結した話ですので特に関心を持ちました。引き廻しとは罪人を馬に乗せて市中を廻り見せしめをする。悪いことをすると裁判に掛けられ有罪の判決があって処罰されることは現在も同じです。
 

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当時は火あぶりや磔(はりつけ)刑などを主刑といって、引き廻しはその付属でおこなう付加刑でした。引き廻しをする時の手続きはどんなものか。江戸時代には御定書百ヶ条があり裁判のことをお仕置きと言われていました。
内容は当局官吏の心得書で一般には非公開でした。殺人事件を起こし拷問の刑に当たる場合や、主人・親類・親殺しは必ず引き廻しになったようで、判決は主に評定所が裁判の場所でした。
京都の場合は中京区に西奉行・東奉行でお仕置きをされ、罪人は六角獄舎に留置されました。府庁の西に左獄後もありました。
引き廻しの時には捨て札に罪人の罪を書き、縦が八尺五寸(258cm)の幟に犯人の生誕や住居・罪状の内容などを墨黒々と、お家流で記載した。馬に乗せられた犯人は後ろ手に縛りあげられ数珠を首にかけていたようです。
 
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 拷問の参考資料を読んでいると気が滅入ってしまいますが、我々の過去に置いては本当にあった話です。そのような異常なことがあり、今日があると思うと知っておく必要もあるのではないかと思いました。
京の引き廻しのルートは六角獄舎から三条通→油小路通→一条戻橋→一条室町→三条室町→三条新町→松原新町(十念ヶ辻)で東西に分かれました。
十念仏を唱え罪人を送った引き廻しルートを罪人や、見送る人の心理を考えながら歩きました。
罪人も最後は願いを聞いてもらえたりもしたようです。明治初期まで刑罰は見せしめの為に行われたようです。
 

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 会員の皆様の質問・疑問は引き廻しのルートが何故、そうだったのか?何故、十念ヶ辻で東西の二方向に分けて松原通東→寺町通→三条大橋を経て粟田口刑場と、松原通西→油小路→三条通→千本通→二条通→(いまの太子道)→地獄橋を経て西土手刑場に引き廻されたのか?に集中しました。
難しい課題の取り組みありがとうございました。
 
(事務局 岸本幸子)
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