活動内容

第36回研究発表会(12.1.26)

第36回研究発表会(12.1.26) 

 

◆日  時: 平成24年1月26日午後1時10分~午後4時

◆場  所: ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1.『天皇と日本の歴史「争いの歴史」』 都草理事 今井敏昭

       2.『今出川通と北野・三条通りと旧東海道』 都草会員 菊井俊彦

◆参加人数: 35名

◆参加費 : 300円   一般参加費 :500円

 第1部は今井理事より「天皇と日本の歴史」の中で今回は”争いの歴史”についてです。弥生時代から1941年までで大凡160の争いがあったようです。まず、第一の切り口は「誰が争ったか」です。それは天皇・中央勢力・地方勢力・外国との争いです。第二の切り口は「何故争ったか」です。理由は領地拡大・統治者交代・組織内抗争・組織外不満などです。突き詰めると「富=土地」の取り合いです。さらに総括すると「食」の為に争ってきました。歴史を見てみますと米の採れ高が十分でない時に、争いが起こっているようです。

 

1600-DSC03329.jpg

 

 弥生時代から富の蓄積→権力の発生→争いがありました。弥生時代から古墳時代にかけて「ムラから国へ」の動きがありました。飛鳥時代にかけては「大和政権領土拡大」ありました。5世紀半ばに、熊本から群馬で日本の国の原型ができたと思われます。7世紀の壬申の乱があった天武天皇のころ国家天皇の意識が出てきました。日本の都は唐の長安をモデルに造られていますが、違うところがあります。世界の常識では王様が住むところは城壁で囲みますが、日本は防御していないところです。平安京のも一条通以北に禁苑は有りません。これを見ていると日本人の争いに対する特性がわかります。それは皆殺しをしないということです。相手の大将だけを討ち取れば戦いは終わりです。島国で他から攻められなかったことが日本の幸せだったようです。391年応神・仁徳天皇の頃から663年の斉明天皇までの270年に渡り「朝鮮半島」に向かいました。目的は領土拡大なのか鉄資源の為なのか分かりません。663年の白村江の戦いの資料をみると20人乗り位の船で朝鮮に向かっているようです。

 

1601-DSC03333.jpg

「対蝦夷」は658年の阿部比羅夫から801年の坂上田村麻呂の蝦夷平定とありますが、1320年の津軽安東氏の内紛など蝦夷の地での反乱が続きました。蝦夷(えみし)とは、古代東北地方の中央政府に帰属しない人々で、蝦夷(えぞ)は、中世アイヌを中心とした人々です。群馬から北が蝦夷の世界でした。
 平安時代は842年の承和の変から969年の安和の変までは藤原氏が独占する為に、他氏を排斥していました。「地方の反乱」は867年の山陽・南海諸国に海賊追捕を発令から1129年の平忠盛、瀬戸内海の海賊を追捕があります。源平の時代でもあります。1156年からは「武士の台頭」です。1221年の承久の乱はもっとも大きな事件でした。武家政権で出来た鎌倉幕府もNo.2争いをしています。

 

 

1602-DSC03335.jpg

 

 南北朝時代に三種の神器の話があります。三種の神器は何回も火事で焼失し、その都度造り直しています。その時に崇め奉った物が本物という考え方です。「対朝鮮」で大きな出来事の一つに1419年の応永の外寇があります。李氏朝鮮が単独で日本に攻め込みました。1597年には慶長の役で秀吉が朝鮮に派遣しました。殆どが日本から朝鮮に攻め込んでいます。争いには「一揆」「アイヌ蜂起」「戦国時代」と続きます。戦国時代の終わりとは、信長・秀吉・家康夫々の説があるようでが、1615年の大坂夏の陣で終わったと思います。他国との戦争では日清戦争に始まり1941年の太平洋戦争がありました。太平洋戦争では1000万人が生死を彷徨いました。最後の戦争も食べる為の戦いです。世界中で70億の人々の内、今も半分近くの人が飢えに苦しんでいます。由って、今の地球上から争いが消えることは無いようです。


 第2部は菊井会員より前回の「京都電気鉄道・北野線」「嵐山電車軌道・北野線」の変遷調査内容についてのご報告からです。今は無くなっています下の森通、そこには明治33年から京都電気鉄道・北野線が通っており、終点北野駅がありました。北野天満宮が明治35年の千年大萬燈祭に際し、神苑計画を立てた資料より確認できました。北野線が移設され、平安道場建設に伴って下の森通がなくなりこの時代の思い出や記憶も対象を失い、子供たちに繋がらなかったのではないでしょうか。その平安道場は華頂山の山頂近くに移築され青蓮院護摩堂となり国宝仏画「不動明王二童子象」を移する予定です。
「今出川通と北野」については旧地図や写真を添付した報告書を作成して頂きました。

 

1603-DSC03336.jpg

 

 今回の新しいテーマーは「三条通と旧東海道」についてです。何故、三条通に関心を持ったのかは平安京の真っすぐな道にあります。平安京の道は縦横真っすぐに造られています。平安京外には夫々に道が真っすぐ伸びています。そんな中、三条通に限っては不思議に感じました。そこで地図の三条通に直線を引いてみると大将軍神社の南側に至りました。尚、線を引き続けると粟田神社の参道入り口にあたりました。それで旧東海道はここにあると思いました。旧東海道については粟田神社の宮司にお話を伺いました。宮司も粟田神社の前を通るウェスティン都ホテル京都にあたる細い道が旧東海道だということで話が盛り上がりました。そして道を調べるのにあたり多くのことをご指導していただきました。

 

1604-DSC03358.jpg

 

 道を調べる時にはまず、明治から大正の測量図を4つ並べてみてその中の変化からを探すところから始まります。その中で旧京津線が走っていた場所がありました。京津線は現在消えています。こんな場合は例により、現場近くにお住まいのおばあさんとの話で教えていただきました。「ここに京津線が走っていましたよ」その場所を大正時代の地図で確認すると道がありました。これが疑問を解いていくきっかけになりました。京津線の線路変更申請書によると日ノ岡周辺の勾配がきつくカットするのが困難。用地買収が困難。都ホテールもある。京津線の開業時は東山三条の交差点からで、三条大橋を起点として描かれております。白川より東に行くと粟田焼の工房が多くあったので難しかったと思われます。

 

1605-DSC03360.jpg

 

 そして旧東海道はどんな道なのか。秀吉が三条大橋を造る以前か以降か。「十六夜日記」では粟田口から牛車を返した、と記されています。これは牛車が登れない急な坂道・登り道であったということです。三条河原に橋があったと言われていますが、上杉本の洛中洛外図には描かれていません。森幸安の地図にも五条・七条には大きな橋が描かれていますが三条には非常に小さい橋しか描かれていません。秀吉以降の東海道は幅も広く描かれています。豊臣秀吉は物事を計画的に進めるタイプです。由って、旧東海道には拘っていなかったと思われます。天正18年に三条大橋は完成し小田原に向かいました。翌年の19年には三条西小橋が完成しています。「豊臣秀吉と京都」の本によると中島がありました。高瀬川が出来た頃より三条界隈は急激に開発が進みました。洛中洛外図にも賑やかな絵が描かれています。御土居の口界隈は賑わい開発が進んだようです。髪結い床などもあります。特徴的な厨子も多くあります。

 京都市の北野公園計画についても研究を継続されているので「思い出」と「京都の道」をつなぎながらの「京都の歴史」のお話を楽しみにしています。

(事務局 岸本幸子)

 

活動内容
このページの先頭へ戻る

Copyright © MIYAKOGUSA All Rights Reserved.