活動内容

第23回都草研究発表会(10.10.11)

      423-山本さん大.JPG     

★顕彰碑のあるお寺の方も御存知でなかった?!英国人「ポンソンビー」氏について語る山本喜康会員 

 

第23回都草研究発表会(10.10.11) 

◆日 時:10月11日(月・祝日) 午後1時15分~

◆場 所:ひとまち交流館京都 3階

◆研究発表

    ・『知られざる京都ゆかりの人を語る』 発表者 都草会員 山本喜康

   ・『伏見城を語る』 発表者 都草副理事長 林 寛治 

◆参加人数:30名

 

今回の山本喜康会員は、英国人ポンソンビー氏について発表されました。彼の名前を初めて知ったのは、京都市西賀茂の西方寺境内にある「本尊美君碑」だったそうです。それからというもの、どんなお人かと興味を持ち、調べ始めたということです。本名はリチャード・アーサー・ブラバゾン・ポンソンビー・フェイン(1878~1937)、ロンドン生まれ、貴族出身、日本名は日本式に「本尊美 利茶道」(利茶道 本尊美と逆になることを非常に嫌った)。法学博士、教育家、思想家。勳四等瑞宝章叙勲。生涯独身。明治34年(1901)、24歳の時に初来日。以後度々来日、初め東京に5年定住、大正13年(1924)から亡くなる昭和12年(1937)まで京都を愛し、日本研究に没頭。著作数も134を下らず、生活は大変規則正しく、衣食住すべて日本式だったそうです。小泉八雲以後に於いて、日本をその本質に向かってまで礼賛した人は彼以外になかろうと言われたということ。また船が大好きな方で、1年おきに親類、友人に会う為に訪英、生涯3000日は船上で過ごされたそうです。このようなことから、西賀茂を気に入っていたということや、西方寺が来迎山大船院西方寺という「船」という字が入る正式名称を持つお寺であったこと、大文字の送り火で知られる船山が北にあったことが、亡くなった後、顕彰碑をこのお寺に建てる選定理由になったことは想像に難くないとのことです。ポンソンビー氏には、沢山のエピソードがあります。昭和天皇が皇太子時代に香港で通訳を務め、帰国後宮中に招かれたということ。昭和天皇の御大典の時には、外国人としてたった一人招待されていること。天皇陛下がお帰りになられる日、聖駕を見送る際には、和装でひざまずいたそうです。そして「青い目の高山彦九郎」、日本人以上の日本人と言われたとのこと。寺社に詣で朱印を押印するのが好きで、無い時には献印してまで押した。日本人は立派な着物があるのになぜ洋服を着るのか、日本人が洋服を着ていると貧弱に見えて仕様がないと話していた。また、臨終の間際には、「dark」と言いかけるも直ぐに言い直し、「暗く…」と、それが最後の言葉だったそうです。そして聖アグネス教会(烏丸下立売)で葬儀が行われました。山本喜康会員は、このような人物が大学や講演会、TV等で取り上げられない、人々に知られないままでいるのは不思議なことと、ずーっと思っておられるそうです。まだまだユニークなエピソードには事欠かないということもあり、この度の発表だけでは言い尽くせなかったご様子でした。ご興味のある方は山本会員までお訊ね下さいとのことでした。

      424-山本さん小.JPG

        ★会員外の方々も山本喜康会員の発表を楽しみに足を運ばれてました!

……………………………………………………………………………………………………………………………… 

      

      425-林さん小.JPG

      ★いつもの見事な語り口で林ワールドに引き込まれます…

        428-伏見城下町.JPG

        ★秀吉が京町街道を基準に正方位に近い地割をした。第四期の伏見城。

 林寛治副理事長は、少年の頃より「伏見城があったんだよ。秀吉さんのお城があったんだよ。」と言われながら伏見でずーっとお育ちになり、伏見城を非常に身近に感じておられたということです。その頃から近所の畑で金瓦を見つけていたそうで、部分的に残っている金箔が火災によりくすんでいる瓦と時空を超えて今尚鮮やかな黄金色を呈する瓦とが発表の中、各机を回りました。やはり実物を手にしますと、桃山文化花咲く中に金瓦で覆われた荘厳な城を想像しワクワクするものです。さて『伏見城を語る』を聴かせて頂き、まず直ぐの感想として、なんと繁雑な伏見時代(会員さんからこのような呼称にしては?という意見が出てました)!でした。伏見城の変遷としては、第一期から第四期まで、秀吉が3回、家康が1回城を造り直していますが、第一期は、豊臣期指月屋敷。指月の森に城郭風邸宅。第二期は、豊臣期指月城。明の使節を迎えるためと秀頼の誕生で天守閣を備えた本格的な城だったが、大地震で崩壊。第三期は、豊臣期木幡山城。木幡山に再建するも秀吉が亡くなり、実質的に家康の居城になるも関ヶ原の前哨戦で落城焼失。第四期は、徳川期木幡山城。家康が再建。大坂夏の陣で豊臣氏滅亡、廃城となる。この間、騒乱、戦、地震、火災、等の中で、各大名が出兵、城の普請、大坂、伏見、江戸と移住。実に厳しい現実を生き抜いたことに思いをめぐらしますと眩暈がしそうになりました。学校の日本史で習っただけの記憶では、徳川は江戸というイメージがあまりに強くありましたせいか、家康が将軍となり秀忠に引き継ぐまでの2年間は、その大半を伏見で政務にあたり、実質的に「伏見幕府」であったのだということが改めて新鮮に響きました。家康、秀忠、家光の三代の将軍が宣下の式を伏見城で行っていることや、徳川御三家である尾張、紀伊、水戸の初代藩主、千姫までが伏見で生まれ御香宮を産土神としていることなど、伏見と徳川の関係の深さには正に目から鱗が落ちる思いでした。このように徳川の歴史は伏見から始まり、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が新政府軍に敗れ終焉を迎える、林寛治副理事長が「徳川幕府265年の歴史は、伏見に始まり伏見で終わる」とおっしゃられたその言葉が深く脳裏に刻まれました。 

  

        429-巨椋池.JPG

     ★島の名前が多いのは?今は陸化されたが、秀吉の工事着工前は本当の島だった。

         430-太閤堤.JPG

         ★弥生式土器が出てくるのでは?と思ったら‘堤’が出てきた!!

 

【豆知識】……伏見城廃城後、大名屋敷の跡地は、畑地に適さなかったため、武士から百姓に転じた西野弥平次が大坂天満市場から取り寄せた「黒仁」という品種の桃を植え果樹園を作りました。春には城跡に三万本の桃の木が花開き、いつしか桃山の名が生まれました。後には桃畑は梅畑に変わっていきます。(林寛治副理事長) 

  

       427-林さん大.JPG

★各地で謂れのある地名が消える中、ご自身、昔大名屋敷があった‘松平筑前’という所で育った。大名の名がつく町名そのものが伏見の文化遺産であり、伏見城の歴史と共に大切に守っていきたいと話される林寛治副理事長。   

        

(事務局 小松香織)

活動内容
このページの先頭へ戻る

Copyright © MIYAKOGUSA All Rights Reserved.