活動内容

わくわく倶楽部(フィールドワーク)4月 京のわくわく不思議探索 大岩神社を巡る(特別編)(19.4.18)

わくわく倶楽部(フィールドワーク)4月 京のわくわく不思議探索 大岩神社を巡る(特別編)

  日 時 : 2019年4月18日(木) 10時10分~15時
  参加者 : 18名
  コース : 午前 市営地下鉄・近鉄竹田駅東口バス停~大岩神社
        午後 大岩山展望台~法琳寺跡(伏見区小栗栖北谷町)

竹田駅東口より京阪バス2系統に乗車、深草馬谷町で下車、所要時間は約20分。
バス下車後、バス通り(大岩街道)を戻り、徒歩5分で大岩神社参道入口に到着します。

①大岩神社 駒札と参道の入口一つ目の鳥居


②池と「白姫龍神大神」の石碑


  一つ目の鳥居から10分ほど歩くと鬱蒼とした樹木の中に池が現れます。
  天正10年(1582)6月13日、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れた明智光秀はこの山を越えて近江坂本城へ向かう途中、この池に武具を沈めたといわれています
  池の傍らに建つ白姫龍神大神の石碑は比較的新しく昭和55年に建てられたものでした。

③印象鳥居

  池から1分。昭和37年に堂本印象がデザインし寄進された鳥居です。
  女神・リーフ・うさぎ・鳥・抽象的な文様が隙間なく彫刻され、鳥居としては珍しい四角形の柱に錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩と宝棒と宝塔を持つ毘沙門天と思われる像が彫刻されています。石工は京都の中村広次郎氏。木漏れ日を浴びた鳥居はとても神秘的でした。

柱に注目!
裏から見た鳥居です

  堂本印象は幼い頃から病弱で、それを案じた印象の母親は息子の健康を願いこの大岩神社に日々お参りされていたそうです。印象の感謝の気持ちがこの鳥居の奉納となったようです。

こんな山道を登りました
こんな注意書きも

④大岩大神・小岩大神
  印象鳥居から急な山道を20分ほど登ったところに大岩大神とその奥に小岩大神の拝殿が建てられています。その背後に御神体である大岩(男神)と小岩(女神)の磐座が祀られています。



  『昔々、この山に男女二人の神が暮らしていた。ある時男女の神がそれぞれ重い病気を患ってしまった。男女の神はお互いを気遣い、双方の献身的な看病により奇跡的に病が治癒したという。土地の者はその二人の神を敬いお社を建て“大岩”を男の神、“小岩”を女の神として祀った。』

大岩
小岩

  大岩神社にはたくさんの祠が建てられ、様々な神様がお祀りされていますが、特に結核や心の病に御利益があるそうです。
  今はこのような姿になっていますが、昭和8年発行の宗形金風著「深草誌」には『大岩の名稱は大岩小岩に對する近年著しい信仰から阪神地方迄も知らるゝに至り京阪電鐵師團前停留塲(現在の藤森駅)から聯絡の乗合自動車で賽者が運ばれ、お籠りと稱する連日の祈願者も日に拾數名はあるの賑ひ振りを呈すやうになつた。』と往時の様子が記されています。
  大岩神社の鳥居や玉垣には黒門市場や本町やしんちなどの大阪の地名が多く記され、大阪の商人のお参りも多かったようです。

⑤二つ目の印象鳥居
  大岩大神の傍にもう一つ印象鳥居がありました。女神や抽象的な文様が彫刻された小ぶりな鳥居です。


⑥山頂入口の鳥居
  こちらの鳥居は西成清掃協同組合が寄進されています。

午前中の探索はこちらで終了です。すぐこの上にある大岩山展望所でランチタイムとなりました。12時チョッキリベストタイムです。午後からは明智藪に向かいます。

⑦大岩山展望所
  大岩山展望所は2010年3月に京都市によって設置され、伏見区に所在しています。標高182mの大岩山の山頂は山科区になるそうです。
少し霞んでいましたが京都市街地の南部の絶景を眺めながらの昼食です。愛宕山・天王山・男山・伏見桃山城・生駒山まで望めました。




あちらこちらに竹藪が見えますが、この竹はほとんどが孟宗竹で筍が栽培されているそうです。真竹で作られる「深草うちわ」の材料にはならないそうです。

13時になりました。そろそろ小栗栖・明智藪に向け出発です。大岩山を南東の方向に下ります。

お昼からの行程を案内(武富さん)

⑧京都大岩太陽光発電所
  平成27年2月27日に発電を開始しています。発電出力は1500.0kw。
  一般家庭800~1000世帯の電力が賄えるそうです。

⑨小栗栖に向かう竹藪
  明智光秀が小雨の中、近臣十数名とともに小栗栖に向かって行ったといわれる、竹藪に囲まれた雰囲気のある坂道です。

⑩弘法大師杖の水(小栗栖中山田町)
  『弘法大師杖の水』は、空海がここを通る際に、杖で地面を掘ったところ、湧き出た水と伝えられています。ここは京から法琳寺を経て北陸道(奈良・近江)に抜ける道の途中で、空海も何度も通ったのではないかと想像できます。

 

⑪小栗栖八幡宮(小栗栖宮山町)
  小栗栖八幡宮の北側に、小栗栖八幡宮の宮司を兼ねていた小栗栖城主飯田家の屋敷がありましたが、今は石垣だけがわずかに残っています。

野津さんより小栗栖八幡宮の説明

⑫久遠山本経寺(小栗栖小坂町)
  1506年に要法寺11世日法が本経寺をこの地に創建。1658年には要法寺22世日祐により僧侶の養成機関である小栗栖檀林が開檀され、明治5年の学制発布までこの地に僧侶の学校がありました。現在は日蓮本宗の寺院として再興されています。

  本経寺の敷地内に明智光秀公終焉の地とされる明智藪があり、明智日向守光秀公供養塔を建て御供養されています。

  拾遺都名所図会巻二に明智光秀亡滅旧跡・檀上本経寺が記載されています。


⑬明智藪
  石碑には『信長の近臣小栗栖館の武士団飯田一党の襲撃により』と彫られています。

石碑の奥に明智藪があるはずなのですが藪がなくなっています。

5年前の明智藪です

⑭引接山西方寺(小栗栖牛ヶ淵町)
  西方寺の御住職は代々大阪市天王寺区にある坂松山高岳院一心寺(浄土宗)から来られているそうです。
  という事もあり、こちらのコンクリート打ちっぱなし、瓦で創られた躍動感溢れる大きな龍、塀や柱に赤色を効かせたモダンな建物は、一心寺の長老高口恭行氏が設計されたものです。

  ちなみに寺町今出川にある華宮山十念寺も高口恭行氏の設計です。

⑮法琳寺跡(小栗栖北谷町)
  法琳寺は飛鳥時代の7世紀半ばに中臣鎌足の長男、定恵(じょうえ)和尚が創建したと言われています。定恵和尚は10歳で唐に留学し、22歳で帰国しますが、帰国のわずか3ヶ月後に亡くなってしまいました。藤原氏繁栄の基礎を作った不比等は鎌足の次男です。
  京都橘大学の発掘調査(2007年)で、法隆寺と同型の白鳳時代の軒丸瓦が出土し、基壇や建物の遺構も確認されています。
  その後、いったん荒廃していましたが、およそ200年後の9世紀半ば、大元帥法(たいげんほう・真言密教の修法)を学んで唐から帰国した常暁によって再興されました。この辺りには大元帥法を修練する大元堂、薬師堂、金堂や塔や僧坊が建っていたそうですが、室町時代15世紀半ばに廃絶しました。
  

法琳寺跡
土に埋まった法琳寺跡石碑

法琳寺跡で今回の探索は終了です。この後、地下鉄醍醐駅近くでお茶をして解散しました。皆様暑い中長時間お疲れ様でした。

(報告:藤川由美子会員・武富幸治会員)
(写真撮影:小松香織・藤川由美子・室千津子・熊谷喜輝)
(広報部:熊谷喜輝) 

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