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第113回研究発表会報告、植山 政雄 理事、横井 剛 会員(21.4.22)

第113回研究発表会報告、植山 政雄 理事、横井 剛 会員(21.4.22)
 YouTube 期間限定 4月29日午前10時から5月5日午後5時まで
    メール会員のみ特別公開 
 
◆日 時:令和3年4月22午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
 
◆研究発表:1. 「文化の発信地としての遊郭~嶋原を中心に~」 植山 政雄 理事
 
      2.「姉小路猪熊橘逸勢社成立の一考察」 横井 剛 会員
 
◆参加人数:ひとまち 38名
 
 
 
第1部は、「文化の発信地としての遊郭~嶋原を中心に~」 植山 政雄 理事です。
 
 公許遊郭(傾城町とも)の中でも、三大遊郭と呼ばれたのが「京都嶋原」「江戸吉原」「大阪新町」です。ここでは京都嶋原を中心に、江戸期の遊郭について理解を深めていきたいと思います。
「嶋原」は、天正17(1589)年豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門と林又一郎が「二条柳町」を開設したのが始まりです。慶長7(1602)年には「六条三筋町」に移転、さらに寛永18(1641)年には朱雀町西新屋敷に移転します、ここが、俗名「嶋原」と言われた所です。

しかし、元禄期(1688~1704)を境に嶋原はだんだん衰退していきます。町中の祇園などの方が気軽に安く利用できたので、立地が悪く格式高い嶋原への客足が遠のいてしまったことが理由です。挽回するため享保期(1716~1736)には郭内に芝居小屋を作り、一般の人も利用しやすいように西門を増設しています。
さて、嶋原太夫は芸妓の最高格であり、美貌・教養や歌舞音曲などすべての面で優れていました。主な客は公家・高級武家・豪商などであり、天皇に謁見できる正5位の位を持っていたとも。対する江戸吉原の花魁は娼妓の最高格です。

また、上方と江戸の大きく違う点は、遊女たちの郭外への出入りです。上方は手形さえあれば自由でしたが、江戸吉原は厳しく制限されていました。 堀や塀の実態、門の数も上方は緩く、江戸は厳しかったのです。
ちなみに、江戸時代の遊郭の構造は、唐の長安にあった妓館の集合地である「平康里」に倣ったものと言われています。大門に通ずる中央道と直角に交わる三筋の横町という構造は、京の二条柳町、六条三筋町、嶋原に共通して見られ、その後の江戸の元吉原、新吉原などの遊郭も同様の構造です。ただし、大坂新町は独自の構造でした。

なお、江戸吉原の遊女は女髷から服装、化粧に至るまで当時の女性たちの憧れの的であり、ファッションリーダー、トップアイドルでした。浮世絵のモデル、歌舞伎や浄瑠璃の演目などにもなっています。
吉原の特徴に火事の異常な多さがあります。その原因には次の二つの理由があったと思われます。一つは吉原の火事には町火消しが干渉せず、燃えるにまかせていたということ。二つめは経営者たちが内心火事を待ち望んでいたこと。なぜなら、全焼すれば郭外に仮宅を設けて商売をすることができ、その方が経費も掛からず、客も気楽に遊べるため繁盛したからです。遊女たちも廓の外に出られることを喜んでいました。
 近世の遊女たちの生活や文化は決して負の面だけで構成されていたのではなく、当時の一般女性たちの憧れの的だったという面もあったのです。(理事 植山 政雄 )
 
 



 
 
第2部は、堀河院と蚑松殿 橘逸勢社成立の一考察~堀河院を祟り続けた橘逸勢~ 横井 剛 会員です。

 平治元年(1159)後白河上皇のご結構で姉小路猪熊橘逸勢社において祭典が行われ天下壮観であったという。何故、平安京内において御霊とはいえ一個人が祀られたのであろうか。先行研究では姉小路北堀川東にあった蚑松殿(旧橘逸勢邸)にあった橘逸勢の墓が発展したとするが、成立過程は不明である。

そこで『左経記』「堀河殿橘逸勢怨霊留」から、蚑松殿北にあった堀河院の所有者と蚑松殿所有者を調べ、成立を考察した。堀河院は、藤原基経にはじまり、藤原兼通、藤原朝光、藤原顕光、橘経国、源行任、藤原頼通、藤原師実である。師実は白河天皇に献上した。蚑松殿は橘逸勢以降は不明だが、最終的に源師房、藤原師実が伝領している。

藤原師実は、堀河院と蚑松殿を所有しており、白河天皇に堀河院を献上するにあたり、姉小路猪熊に蚑松殿の霊を遷し、新たに祀ったではないだろうか。当時、墓は存在していないと思われるが、霊の存在は信じられていたのである。以上から、橘逸勢社は怨霊鎮魂のために創祀されたのである。
なお、『山槐記』に橘逸勢社焼了の記録があり、場所が蚑松殿邸内であることから、1167年には邸内に遷座されていたようである。
下桂御霊神社は橘逸勢を祭神とする。平安時代末期の下桂は藤原道長の桂山荘を核として下桂荘が形成された。したがって、橘逸勢社焼失後、藤原氏によって桂山荘内に遷座され、やがて御霊神社として発展したと推測する。

しかし、下桂御霊神社の創祀は貞観十八年(876)とする。これは昭和十二年、神社の有志三名によって、神社が郷土愛の軸となるよう決められた、未来へのメッセージである。
私の推論は文献史学の方向性としては正しいかもしれないが、このメッセージに込められた地元愛の前には二次的なものでしかないのである。(会員 横井 剛)
 
(広報部 岸本 幸子)
 
 
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