第84回研究発表会報告、菊井 俊彦会員・熊谷 喜輝副理事長(16.10.04)
第84回研究発表会報告、菊井 俊彦会員・熊谷 喜輝副理事長(16.10.04)
◆日 時:平成28年10月4日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 2階
◆研究発表:1. 「東京極大路と寺町通」 菊井 俊彦会員
2.「意外に知らない歴代知事と京都復興のお話」熊谷 喜輝副理事長
◆参加人数:33名
第1部は菊井 俊彦会員より「東京極大路と寺町通」です。
今日は次の四つの質問に答えるかたちで進めたいと思います。
① 寺町通はなぜ二条通から京極通を東へ振れていくのか?
② 寺町通はなぜ三条通で東西にずれているのか?
③ 新京極通の「たらたら坂」はなぜできたのか?
④ 四条通は御土居によってどのように閉塞されたのか?
① 寛平8年(896)の『太政官符』に鴨川の堤の西、一条大路以南、三条大路
以北の営田が許可をされました。そこに「中河水」として中川が表記されています。
これが中川の初見です。この当時、鴨川には下鴨神社北限付近まで堤が築かれていました。
このため、中川は下鴨神社北限より北から鴨川の水を引いていたことになります。
そして、この流路跡が寺町通になっているのではないかと思っています。言い換えれば、
二条通ないし三条通付近から寺町通は京極通を東に振れていくことになります。
② 前記のように、寺町通の三条通以北は中川の流路に沿って寺町が形成されています。
しかし、三条通以南は中世以来、四条京極に四条道場金蓮寺が位置していました。
その後、六千坪の敷地を占める誓願寺が三条京極に移転してきました。これで、寺町通
が京極通に重なる道筋ができたものと考えます。結果、東京極大路につながる寺町と中
川の流路につながる寺町が三条通で東西にずれて結び付いたものと思います。
③ 近世までの鴨川の河原は、京極通からなだらかに水辺に続いていたと思います。
三条大橋の建設に伴い三条通が河原のなかに延伸されます。しかし、寺町に移転して
きた天性寺・矢田寺・誓願寺・誠心院の寺院は本堂などの建設場所には盛土をしてい
ますが、墓地などには盛土をしていません。そのことによって、三条通・寺町通と寺院
の本堂や墓地とのあいだに段差が発生しました。誓願寺は寺町通に面していますが、三
条通にも北門がありました。ここが現在の「たらたら坂」の場所です。この北門から寺
院のなかを通り抜ける道が金蓮寺まで続いていました。その通り道が新京極通の原型です。
④ 『祇園社記』によりますと、天正19年(1591)から慶長6年(1601)の間、
四条通は御土居によって閉塞されていたようです。私は以前から『寛永十四年洛中絵図』
〈寛永14年(1637)〉に描かれている黒塗りの湾曲した線が川の流路跡なのではない
かなどと気になっていました。しかし、『元禄十四年実測大絵図』〈元禄14年(1701)〉
によって明らかになります。そこには御土居が描かれていました。
ですから、四条通は直線的な御土居ではなく、喰い違い型の御土居によって閉塞されてい
たことがわかりました。(会員 菊井 俊彦)
第2部は熊谷 喜輝副理事長から「意外に知らない歴代知事と京都復興のお話」です。
研究発表会のデビューとなりました今回、色々とハプニングがありましたが、何とか発表
を終えることが出来ました。
事務局の担当や観桜祭・観芸祭の案内に参加して、事務所の隣の旧食堂に飾ってある歴代
知事のパネルを説明していましたが、いつも3代迄でした。
別途、幕末関係の資料を調べていて、「王政復古の大号令」で初代知事の「長谷信篤」の
名前を見つけて以来、俄然歴代知事に興味を抱きました。
最初は事務局で勉強会としてスタート致しましたが、今回は横顔やエピソードの他に、
やはり維新の京都激動期に、いかに「京都復興」に歴代の知事が熱意をもって取り組んで
いったかを、私なりに皆さんにお伝えしたく加えさせて頂きました。
御蔭で2代目の槇村正直に1時間も費やし、原稿は10代まで用意しましたが、3代目北垣
国道で時間切れとなってしまいました。
4代目以降はそれこそ名前もよく知りませんでしたが、意外に興味深い話もあり、皆様の
暖かいご声援もいただき、ぜひこの続きを改めて催したいと考えておりますので宜しく
お願い致します。
また、この15日(土)には、京都府庁旧議場「土曜講座」にて同じタイトルでお話を致
しますが、こちらは、一般向けにダイジェスト版としてお贈りしたいと思います。
一府民として、京都の歴史の中で、歴代知事の業績をあまりにも知りませんでしたので、
少しでも知識の足しにでもして頂ければと願っております。それと、各歴代知事の何か
エピソードをご存知の方は、こそっと私に教えてください。(副理事長 熊谷 喜輝)
(広報部 岸本 幸子)