活動内容

第18回都草美化活動実施結果~武信稲荷神社~(10.9.19)

第18回都草美化活動実施結果~武信稲荷神社~(10.9.19)

 

◆日  時:9月19日(日)午前9時30分集合
◆場  所:武信稲荷神社(京都市中京区三条大宮西二筋目下ル 075-841-3023)
◆参加人数:14名(女性3名、男性11名)

9月8日実施予定のところ、雨天のため本日に延期されたもの。日程変更のせいか、参加者が少なかったように思いました。9時30分に始めて11時に終了。禰宜さんから講話を聞けるはずでしたが、都合で藤野が代行しました。そのあらましは以下のとおりです。

◆武信神社の由来

859年(貞観元年)清和帝の頃、関白藤原良相(よしすけ又はよしみ)の建立。元はこの辺りに一族の療養施設「延命院」があった。時の右大臣近衛大将、西三条大臣とも呼ばれた頃、施設の守護社として建てられたもの。以後、中興の祖と仰がれた藤原武信が手厚く保護、庶民の信仰を集めたことから、武信稲荷神社と呼ばれるようになった。稲荷神社といえば、伏見稲荷大社を頂点として、いわば古来庶民信仰の根幹たる五穀豊穣、家内安全、健康長寿、商売繁盛、諸病平癒、なかんずく疫病退散をただただ願った、生きるための庶民の心の拠り所であった。

◆幕末の頃のこの辺りのエピソード

神社の南に今は大きなマンションが建っているが、安政の大獄、禁門の変にまつわる囚人たちを繋ぐ「六角獄舎」がありました。実は、ここに、あの坂本竜馬の恋人お竜さんの父、楢崎将作も収容されていました。医師として勤皇の志士を支援していたからです。お竜と竜馬は、神社の樹齢800年の榎に「竜」の文字を刻み、お互いの安否を確認しあったといいます。二人揃ってこの大木に登り、囚われたお竜の父が見えぬかと獄舎の方を必死で見下ろしたこともあったといいます。今では逢引、縁結びの願かけに訪れる若者が多いといいます。さらに山脇東洋が初めて人体解剖をしたのも囚人の死体でした。鉄砲焼けといわれた禁門の変の火の粉も榎の大木には災禍を及ぼさなかったようです。

本日は清掃活動ご参加ありがとうございました。

(寄稿:美化活動部会 藤野淳士)

(HP運営委員会 吉見)

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