活動内容

第106回研究発表会報告、堂園 光子 会員、野津 隆会員(20.2.27)

第106回研究発表会報告、堂園 光子 会員、野津 隆会員(20.2.27)

◆日 時:令和2年2月27日 午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 2階

◆研究発表:1. 「日本書紀よりその2 ー敏達天皇から推古天皇までー」 堂園 光子 会員

      2.明智光秀は近江で誕生?「麒麟がくる」は菩提寺西教寺ゆかりか? 野津 隆会員

◆参加人数:34名

 

第1部は、「日本書紀よりその2 ー敏達天皇から推古天皇までー」 堂園 光子 会員です。
前回は「継体天皇から欽明天皇まで」でその続きです。

欽明天皇亡き後、天皇位は欽明天皇の子供たちが継承してゆきますがスムーズに継承されたわけではありません。
敏達天皇の時代は、大連・物部守屋と大臣・蘇我馬子の時代です。大伴氏はもう失脚しています。
敏達天皇の皇后・広姫は3年目で亡くなりました。その後トヨミケカシキヤヒメ(後の推古天皇)が皇后となります。
これによって蘇我氏の力が増します。

敏達天皇亡き後、腹違いの弟・用明天皇が即位しますが病弱なため2年後に亡くなります。
その後、天皇位をめぐって戦争状態が続きました。具体的には蘇我氏と物部氏の対立です。
そして蘇我氏が勝利し、蘇我馬子の力をバックにして欽明天皇の娘であり敏達天皇の皇后であった炊屋姫が即位(推古天皇)し、厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となり、国内は安定します。

対外的には遣隋使を派遣して中国(隋)の文化を積極的に吸収した時代です。
今回は30代 敏達天皇、31代 用明天皇、32代 崇峻天皇、33代 推古天皇でした。(会員 堂園 光子)




第2部は、明智光秀は近江で誕生?「麒麟がくる」は菩提寺西教寺ゆかりか? 野津 隆会員です。
大河ドラマ「麒麟がくる」で今またクローアップされている明智光秀の近江での足跡を辿るお話です。

いきなり明智小五郎のお話でびっくり?光秀の出生から歴史の舞台に登場するまでの半生は謎に包まれ、未だよく分かりません。誕生の地と伝わる場所だけでも岐阜県(旧美濃国)で5か所。
そして、最近滋賀県犬上郡多賀町佐目に伝わる十兵衛屋敷まで加わりました。

美濃源氏土岐氏の一族明智氏説が有力ですが、明智十兵衛光秀が恵那市明智の明智遠山氏、土岐明智氏ゆかりの出自の説や可児市長山明智荘の説があり、正妻妻木煕子の一族の根拠地妻木城は可児市にあります。  

                                                                                                             

フィールドワークで岐阜県、福井県、滋賀県の現地に赴き、確認された画像や「淡海温古録」記載の佐目十兵衛屋敷でなぜ明智氏は隣国近江に移られたかを独自の解釈で説明。

閑話休題、明智姓を名乗る人が現在日本に1800人強存在されており、なぜか四国や福島県などに偏在していることなど興味深いお話もありました。
また、ドラマで登場する妻煕子と仲睦まじい夫婦や妻の名、母の名の諸説。

西教寺にある江戸時代に詠まれた芭蕉の句「月さびよ 明智が妻の 話せむ」と光秀辞世の句の紹介。光秀⇒天海僧正としての存命説や日光東照宮の明智の紋所俗説のロマン。
宇佐山城を任され、信長軍の優秀な武将としての比叡山焼き討ち他近江での戦功。その結果としての西近江5万石の大名として坂本城を根拠地にしたこと。
一族の菩提寺として西教寺を崇敬の地として整備し、現在に至ること。
細川藤孝との邂逅に唾がる医学に通じた光秀を伝える「米田文書」などの細かな祖話もありました。その西教寺には偏在も「麒麟」の彫刻が施された唐門があることなど・・・盛り沢山の内容で興味の尽きない時間超過の発表でした。(会員 野津 隆)

 

(広報部 岸本 幸子)

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