活動内容

第91回 歴史探訪会東部会 「妙と法の郷 松ヶ崎!!」(19.9.19)

第91回 歴史探訪会東部会 「妙と法の郷 松ヶ崎!!」

日  時 令和元年9月19日(木)13:00~16:30
参加人数 96名・うち非会員15名、スタッフ7名
コ ― ス 松ヶ崎駅→末刀(まとう)岩上神社→桜井水→「妙」火床→新宮神社→松ヶ崎小学校→七面宮→  
      生師廟(しょうしびょう)→涌泉寺→妙円寺→白雲稲荷神社→「法」火床遠望・解散

当日は残暑も治まり絶好の歴探日和となりました。また、何と言っても五山送り火「妙」の火床見学の人気が高かったのが原因と思います。96名という記録的なご参加をいただき、資料の増刷などバタバタしましたが、スタッフ一同うれしい悲鳴をあげることができました。

武富部長より本日の説明

松ヶ崎駅の集合場所ではスペースも狭く、宝ヶ池公園に移動して、「松ヶ崎」の地名については、松が生えて岬のように張り出した山地の先端との由来の説明がありました。近くに鎮座する「末刀岩上神社」には、磐座(いわくら)が祀られています。江戸時代までは社殿がなく、古代からの自然崇拝が今に続いていることに驚きました。涸れた事の無い桜井水(涌水)が下鴨神社へ流れる泉川の源流であることから下鴨神社の摂社末刀社として江戸時代に名乗りを上げ、「岩上神社」から「末刀岩上神社」になったことなど深い話がありました。

丹羽副部長
末刀岩上神社
桜井水

「妙」の火床は、現在非公開です。妙の山は現在公益財団法人松ヶ崎立正会の所有になっています。火床の保護だけでなく、山での事故を排除するためです。斜面は急で足元も十分でないため、高齢の参加者は厳しいかなと思いましたが、ほとんどの参加者が中程まで上られ、火床の説明を受けられました。103基の火床、担当の各家庭が責任を持って着火から消火まで管理します。点火中はその場を離れられません。消火の合図があれば、用意したバケツ等の水で担当火床を消します。第二次として消防団が徹底的に消して回ります。ダブルチェックをしているのですね。妙法二山の南にかんぽ生命京都事務センターのビルがあります。その屋上から、保存会の役員が点火、消火の合図のライトを照射します。
山腹からは京都市北部の町並みが一望でき爽快な気持ちになりました。

火床への山道
福井会員
「妙」の火床

岩上神社のご神体(大岩)を間近で拝し、新宮神社に到着。ここも創建年代が不明の古い神社にもかかわらず、「大比叡大明神」→「新宮大明神」→「白鬚神社」→「新宮神社」と名称が変わり歴史変遷に影響を受けた事を感じました。地域の産土神として代々信仰を集めてきました。お宮参り、新入学、卒業、子供の成長と共にありました。神社の入り口の巨木がご神木として大切にされていました。しかし、昨年の台風の影響で倒木を危惧し、事前に「樅ノ木」は伐採されてしまいました。(樅の木は残らなかった)ことは残念に思いました。

末刀岩上神社の磐座
新宮神社
植山会員

今回は松ヶ崎立正会館で、岩﨑松ヶ崎立正会理事長から妙法の送り火とその歴史を聞かせて頂く予定でしたが、参加者が予想を上回り収容できないとのことで、計画変更をせざるを得ない状況となりました。

明治6年に開校した松ヶ崎小学校は、妙泉寺の一坊からスタートしました。妙泉寺の敷地の南半分が小学校になっていましたが、大正9年に妙泉寺本堂が撤去され、全て小学校の校地となりました。同校には後水尾天皇が妙泉寺に行幸されたときに側にあった「御幸の松」の切り株(昭和47年枯れ)が残っており、校長先生のご厚意で参加者に順次拝見させて頂きました。

御幸の松の切株

松ヶ崎の集落には多くの灌漑用水が走っています。この集落は常に水に悩まされてきました。江戸時代には高野川から取水していました。しかし渇水期この高野川の取水について高野村や修学院村、一乗寺村との水争いが絶えませんでした。以前の歴史探訪会でも見てきたところです。安定的に水を確保するために新しい水源を求めました。山の北側にあった深田を溜池にする許可を得、北浦溜池と呼ばれました。一度拡張もされ現在の宝ヶ池となります。井出ヶ鼻井堰で、安定的に取水され、松ヶ崎の田畑を潤すことで水争いは落ち着きました。この用水は下鴨地区の田畑も潤し、下鴨神社への泉川に繋がっています。
尚、この用水は松ヶ崎が京都市に編入した時に管理権も京都市に移行しています。

田村会員

松ヶ崎小学校から少し上った山腹に七面大天女を祀る七面宮があります。法華経を信仰する人の守護神として篤く敬われました。側には月輪滝と日輪滝がありましたが、今は涸れてしまっているのが残念でした。

七面宮
武富部長
七面宮拝殿の紙垂(しで)

涌泉寺の門前に生師廟があります。ここには、天正2年(1574)本涌寺(日蓮宗学徒を養成する最古の学室で松ヶ崎檀林と呼ばれた)を開いた日生上人の遺骨が納められています。

生師廟
大谷副部長

日蓮宗教学の中心となっていた本涌寺の講堂は東福門院女院御所の残木を拝領して建てられたと言われています。現在では妙泉寺と合併して涌泉寺の本堂となっていますが、100名近い参加者が収容できたのはさすがです。松ヶ崎立正会館で予定されていた岩﨑松ヶ崎立正会理事長の妙法送り火の説明と、八竹上人の寺院の由緒や松ヶ崎題目踊りについて拝聴することができました。日本最古の盆踊りと言われる題目踊りとさし踊りは、この本堂の前で行われます。

涌泉寺本堂にて
涌泉寺 八竹良明(やたけりょうめい)ご住職
岩﨑松ヶ崎立正会理事長(会員)
涌泉寺庭の妙法

 その後、妙円寺(松ヶ崎大黒天)に移動し、寺院の由緒や松ヶ崎石仏について説明がありました。京都七福神の札所にもなり、多くの信者が参拝します。
この妙円寺の山に「法」の字が点火されます。現在では松ヶ崎立正会が管理し、立ち入りを禁止しています。
皆さんは、ここが先日悲惨な事件が起こった京アニが制作した「けいおん」の聖地の一つだったことはご存知でしたでしょうか?主人公の唯の自宅横に松ヶ崎大黒天の鳥居が描かれているそうです。アニメファンの若者がよく訪問されると聞きました。

多賀会員
なで大黒

参道石段下の古井戸の話のあと、白雲稲荷(東の宮さん)を参拝しました。松ヶ崎には牛がいなかったと聞いたけど、本当ですか?と言う話が出ました。
東松ヶ崎では明神さんのご神託により、牛の飼育が禁じられていました。松ヶ崎の田は水の引きが早いので、田を鋤いたら、その日のうちに田植えを済ませる必要がありました。牛は動きが遅いので、馬が鋤かないと間に合いません。水が入った田から順に隣近所が組になって植えたので、一軒だけ牛が鋤くという訳にはいきません。これを理屈で言うのではなく、ご神託という形で伝えたものと思います。

最後に「法」の字が大きく真正面に見える駐車場で解散しました。

駐車場より「法」の字

(報告:歴探東部会・丹羽氏昭副部長)
(写真:須田信夫・熊谷喜輝)
(広報:熊谷喜輝)

 

 

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