活動内容

第102回研究発表会報告、菊井 俊彦 会員、福井 大作監事(19.6. 6)

第102回研究発表会報告、菊井 俊彦 会員、福井 大作監事(19.6. 6)

◆日 時:令和元年6月6日 午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1. 「三条大路末路を歩く」 菊井 俊彦会員

                 2.「江戸時代の天皇・公家の裏話」 福井 大作監事

◆参加人数:44名

 

第1部は、「三条大路末路を歩く」 菊井 俊彦 会員です。

〚1〛三条河原を考える

以前に述べましたが、寺町通は三条通以北と以南で形成過程が違っています。以南は概ね東京極大路沿いに寺社は並べられていますが、以北は“中川”の流路に沿って宅地化された地面上に形成されていると考えます。これによって寺町通は三条通でズレることになりました。

そのため、三条通を寺町通から三条新橋まで延伸する道は土堤状に造られました。北側の天性寺、南側の誓願寺の墓地が三条通から大きく下がっていることからそれがわかります。言いかえれば、墓地の場所が三条河原だと思います。江戸時代から誓願寺には北門があり、その道が四条の金蓮寺までつながっていました。北門からの道は当然傾斜していたはずですから、たらたら坂の原因となります。

〚2〛三条大路末路を歩く

三条大路末路を直線で描くと粟田神社の参道の前に出ます。『華頂要略』では、三条通南裏の道が青蓮院境内地となって道としては廃されているが、その道から東に粟田神社前・良恩寺・仏光寺本廟前を通る道はそのまま使われているとされています。『華頂要略』の著者はこのような状況から、この三条通南裏の道が古道であって、今の三条通は後世に付け替えられた道だと述べています。

〚3〛近世の三条通を見る

『京の古道を歩く』に「三条通東側の安養寺から日向大神宮に向かう大日山道のあたりにも旧東海道の面影が残る。」と記されています。この道が近世の三条通(東海道)だとすると、華頂山から大日山へとルートが変更されたことになります。

小田原遠征のために豊臣秀吉が石柱橋脚の三条新橋を造ったときに、あわせて、大軍勢の通れる、りっぱな新しい道を造らせたのだと思います。このときに新道は三条大路末路より北側に振れたのでしょう。

〚4〛旧白川の流路を考える

白川は有史以来、下流域の流路を大きく変化させていましたが、院政期の白川は吉田山の東を南下し、法勝寺の東に至って西に流路を変えて鴨川に合流していました。白川の流路が三条通北裏を西流して鴨川に流れ込んでいたのは中世をとおして変わっていないと考えられています。

鴨川に合流していた白川本流の流路を推測してみます。『角川日本地名大辞典 京都府』に「三条通の北を西へ流れていたかつての本流下流部は、ほぼ左京区と東山区の区界となって、地図上に痕跡をとどめている。」と記されているラインを南限とし、三条通北裏または京都文教学園裏の旧白川流路跡と要法寺境内の放生池、そして、孫橋通を結ぶラインを北限と考えます。

江戸時代に森幸安によって作図された『中古京師内外地図』には鴨川に合流する白川の本流のほかに四条通の北側に流れ込む細い“小川”も記されています。『華頂要略』には、天正18年(1590)、豊臣秀吉によって三条新橋が造られたことによって、橋の下の地形が高くなって鴨川の水が滞留するようになり、洪水のため白川の本流が鴨川に合流することができず、支流の小川に流れ落ちて、今ではこちらが白川と呼ばれていると書かれていますが、これは町名から今の古川町商店街に該当しています。そして、その後の洪水でより東の方から水が落ちて、現在の白川の流路となったようです。

〚5〛旧京津線を歩く

蹴上・日ノ岡付近は江戸時代も含めてインクライン・京津線・国道1号線の開削など山が大きく切り下げられてきた難所です。京津電気軌道は明治40年(1907)の特許取得後、明治43年に京都府に対して線路変更申請書を提出しました。三条通は人家が多く、道は狭く、急勾配なので三条通北裏に専用軌道を敷設したいというお願いでした。それは認められて、旧京津線の専用軌道は大正元年(1912)から昭和6年(1931)のあいだ運用されていました。(会員 菊井 俊彦)


第2部は、「江戸時代の天皇・公家の裏話」 福井 大作監事 です。

天皇の長い歴史の中で、江戸時代ほど浮沈の激しい時代はなかったと言えます。今回は世上あまり知られていないと思われる話をしました。

○徳川幕府VS天皇・公家の関係
 1615年「禁中並公家諸法度」を発布。これは朝廷・公家社会を統制する基本法17ケ条で、画期的な点は古代から天皇の地位や義務が成文法で規定されたことはなかったことです。
 天皇としての自由と権力は無くなったが、この法度により朝廷の秩序回復が図られ、天皇の権威強化につながり、朝廷と公家の存続に繋がった訳です。

○2人の女性天皇
 109代・明正(めいしょう)天皇:奈良時代の称徳天皇以来859年振りの女帝。後水尾天皇と幕府の確執からわずか7才で即位された悲劇の天皇。
 117代・後桜町天皇 史上最後の女帝。歌道や文筆に優れた文化人だった。
*現在の皇室の構成図から女性天皇と女系天皇、皇統の危機について説明しました。

○天皇と公家の台所事情
 江戸中期3万石→幕末6万石(朝廷・公家全部含めて約12万石)。これは高松藩と同じ。
 但し大名は参勤交代費用、軍備費、幕府の公役など大きな経費が必要だが、朝廷には必要ないので手取りだったので中堅の大名というところ。
 公家は五摂家が25%取ってしまうので、残りの公家は一家当り300石も無かった。

○天皇の食事

 御板元(おいたもと)という料理人から天皇の元に届くまでには6ケ所もの担当部門の存在があった。
 万一の命のリスクはあるが充実した食生活ができたのは毒見役でありました。
 *天皇も食べた鶴料理 *肉食禁止令と庶民の方便 *明治4年、肉食解禁(明治天皇)

○公家とは何者か?
 公家の名前は元来、天皇または朝廷を指し「こうけ」「おおやけ」と言った。
 鎌倉時代以降、朝廷貴族たちが、武士を武家と呼び、宮廷貴族を公家(くげ)と称した。

○公家の家格 
 固定され、家柄によって昇進できる官職が限定された。五摂家だけが突出した身分制。

○公家社会の家礼(けらい)=門流
 公家は全ていずれかの五摂家に属し、主従関係を結ばねばならなかった。

○公家の家業と内職コンクール
 家業だけでは食べられないので、その権威を利用して副収入に精を出した。許認可権、家元、制度、内職である。
*百人一首・花札づくり *幕末の賄賂 *岩倉具視の賭場貸し

○御所(ごしょ)詞(ことば)=女房ことば
 宮中特有の言葉で一般の町衆にまで伝わった。現在も数多く使われている。
 語頭に「お」が付く丁寧語や語尾に「もじ」が付く「もじ言葉」など。

  以上要約し過ぎで良く分からないかと思いますが御容赦ください。(監事 福井 大作)

 

(広報部 岸本 幸子)

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