活動内容

第88回 研究発表会 報告、芦田 喜雄 理事・櫻井 英成 会員 (17.06.27)

第88回 研究発表会 報告、芦田 喜雄 理事・櫻井 英成 会員 (17.06.27)

◆日 時:平成29年6月27日午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1. 「古写真で観る 祇園祭山鉾巡行史」 芦田 喜雄理事

                  2.「稲荷信仰の発祥」-櫻井 英成会員

◆参加人数:31名

 

第1部は、事情によりピンチヒッターで発表をお願いした芦田 喜雄 理事より
「古写真で観る 祇園祭山鉾巡行史」≪明治41年(1908)~昭和49年(1974)≫です。

 今日の発表はわくわく倶楽部の祇園祭研究会で発表したテーマーを皆さんにも聞いて頂く事ができ、
良かったと思っております。
内容は祇園祭研究会の素材をPCで集めて観ている内に、今とは全く違った古き良き時代の山鉾巡行の
実態を再発見し、また当時の社会情勢を色濃く反映して流行していたその時代の風俗等を若かりし頃の
自分と重ね合わせながら懐かしく研究することができました。

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まず大変貴重な祇園祭最古の写真からスタートしました。それは明治12年(1879年)11月16日、
ドイツ皇孫入洛を機に山鉾27基が御所に参入した時の写真。
なお、この年はコレラ流行のため山鉾巡行は前祭・11月7日、後祭・11月14日に延期されました。
明治41年に月鉾に稚児が乗っている時代の写真を発見。1912(明治45)年から稚児人形
「於菟麿(おとまろ)」に変わった。このころの見物客の「パナマ帽」が当時の流行を物語っています。

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明治45年この年の6月に四条通が拡幅され、市電が通った。
24日の後祭は、明治天皇の病状悪化のため中止された。
大正2年1913年の前祭の巡行は、前年の明治天皇の死去にともなう服喪のため、8月7日に行われました。
京都百貨店の「大丸」は1912年9月、四条高倉の地に移転・新築された鉄骨木造三階建ての屋上には
音楽堂として利用された円形の大塔屋があり、異国風の建物の雰囲気が素晴らしい。
最後の生き稚児:放下鉾は昭和3年まで、以降は三光丸(人形稚児)になる。
昭和3年(1928) 御大典園遊会(植物園)での放下鉾と岩戸山 紋付袴が珍しい。

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昭和17年(1942) 戦前最後の巡行 翌18年より山鉾巡行中止。「祈皇軍武運長久」の垂れ幕を前掛けに
宵山の点灯も中止。
昭和22年(1947) 戦後山鉾巡行が復活 長刀鉾、月鉾が建てられる。長刀のみ寺町迄曳行。進駐軍の姿が多い。
昭和23年(1948) 6年ぶりに船鉾が戦後初めて復活、寺町四条間を往復。進駐軍への配慮から、鎧を付けた人形は乗せず。
昭和26年(1951) この年月鉾が、真木倒れの為、不出 前祭で月鉾を除く、8基の鉾と12基の山が9年ぶりに勢揃いし
巡行したと伝えられる。
昭和27年(1952) 菊水鉾が再興、唐櫃で加列。幟の文字は八坂神社高原宮司の書、台車は六孫王神社の神輿用の台車を借与。
【巡行ルートの変更】昭和37年(1962) 阪急電鉄四条河原町迄の延伸工事の為、巡行テスト 結果良なれどこの年は前祭、
後祭の巡行を中止を決定。鶏鉾等町内のみの巡行。
昭和49年(1974)「厄除け粽」投げの風景 事故の為、昭和58年(1983)に中止となる。

祇園祭検定の2級を祇園祭研究会のメンバーで作った問題を皆さんに挑戦していただきました。
              (芦田 喜雄理事)


 

 

 第2部は「稲荷信仰の発祥」櫻井 英成会員です。
稲荷神社の氏子であることから、子供のころから稲荷祭に接していて稲荷信仰は私の予てからのテーマで
10年前から調べています。
稲荷信仰の発祥と展開については、日本で一番多い神社は八幡さんですが独立した神社ではない町中の
お稲荷さんやビルの屋上のお稲荷さん、また、農家の屋敷神としての小さな祠まで含めると江戸時代の
昔からお稲荷さんが圧倒的に多いようです。

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 広く知られている伏見稲荷大社の創建は、和銅4年(711)2月の初午の日に東山三十六峰最南端の稲荷山の
三が峰に稲荷大神が降臨したのが最初であると伝えられています。
稲荷信仰の源流は稲荷山の三つの峰に降臨した稲荷神(=穀物神)で正式な名は宇迦之御魂大神と云い「古事記」
の神代巻にスサノヲの子孫系譜の中にその名がみえます
稲荷山に詣でることは『枕草子』、『今昔物語』、『蜻蛉日記』などにあるように信仰と同時に行楽的な性格も
あったように考えられます。

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 紀州田辺で弘法大使空海と出会った稲を担った翁は二匹の狐を従えていました。
空海はまた唐で修行中に知ったヒンズー教の天部の法神『茶枳尼天』を勧請し日本へ帰り東寺の護法神として
祀りました。
稲荷明神も東寺の地主神であり、稲荷神は臨済宗や日蓮宗の寺院にも祀られるようになりました。
伏見稲荷大社の神職は秦氏と荷田氏の二つの家系があり、何かにつけて対立していました。
秦氏は渡来人ですが、荷田氏は稲荷社創建以前から深草地区に住み着いていた氏族でした。
稲荷と狐の関係はよく分かりませんが、インドでは茶枳尼天はジャッカルに乗っていたが中国や日本には
ジャッカルは居なかったため、代わりに狐をあてたように思う。
稲荷大社では狐は命婦(宮中の女官)と呼ばれていました。
茶枳尼天と狐との結びつきは日本に入ってからのことです。

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 稲荷信仰は江戸時代に屋敷神として自分の屋敷に祀るようになった。豪商 三井越後屋、大岡越前守、江戸幕府
の大老など当時の成功者が祀ることから、一般庶民もあやかって願望の気持ちで競って真似をして祀りました。
室町時代には稲荷祭は盛大で趣向を凝らした五十種余りの山鉾が行列し、風流結講前代未聞と記載されています。
伏見稲荷大社には稲荷祭に関する資料はなく、町衆の尽力によるところ大であったことは間違いないと思います。
応仁の乱以降、稲荷祭は中断、山鉾は再興されずその後規模は縮小されましたが現代に至るまで町衆の力で続い
ています。

 これから都草20年史に向け「京の祭」として稲荷祭をくわしく紹介したいと思います。
皆さん、京の祭をテーマとして勉強会を開きその成果を小冊子にまとめれば面白い成果発表になるので
参加者をお待ちしています。(会員 櫻井 英成)

             (広報部 岸本 幸子)

 

 

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