活動内容

第78回研究発表会報告、佐田 眞実会員・岡田 英三郎会員(16.01.12)

第78回研究発表会報告、佐田 眞実会員・岡田 英三郎会員(16.01.12)

◆日 時:平成28年01月12日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「金唐革は世界をめぐる」 佐田 眞実会員
      2.「帝のご意向は「綸旨紙」で」 岡田 英三郎会員
◆参加人数:23名
◆参加費 :300円 一般参加費 :500円

第1部は 佐田 眞実会員より近世日本の金唐革~金唐革は世界をめぐる~の発表です。
金唐革を復刻された京都の工芸家 徳力康乃さんの作品が大好きな佐田会員。
金唐革の魅力とその奥深さを語って頂きました。

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金唐革とはもともとはヨーロッパで作られた美しい装飾皮革で、16世紀から18世紀にかけて盛んに生産され、主に王侯貴族の館などの壁面装飾に用いられました。主に、なめした革に金属箔を貼り木型や金型で模様を浮き出し、必要に応じて彩色して仕上げるという過程で作られますが、上に塗るニスによって金色に輝くことから金唐革と呼ばれています。
17世紀のオランダにおいて最も技術が発達した金唐革は、江戸初期に西洋の様々の珍しい品々とともに日本に渡来しました。
唯一貿易を許されたオランダ東インド会社は、日本との関係を円滑にするための贈り物として、金唐革を徳川家や高官・役人などに献上・進呈しています。

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ただ面白いことに、日本では壁面装飾には用いられず、全く違った用途で使われました。
鞍、鐙、風炉先屏風、文具箱、巾着袋、煙草入れなど、金唐革は加工品の材料として非常に重宝されました。
個人貿易が盛んになる江戸時代後期には大量の金唐革が注文され、市場に出回り、次第に富裕層のみでなく庶民に至るまで「きんからかわ」という名前が知られるようになりました。

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さらに高価で希少な金唐革ではなく、日本独自の和紙によって制作することが工夫され、金唐紙として発達し、明治以降に建てられた西洋建築物の壁を彩る壁紙として、ヨーロッパの人々の目を驚かすことになりました。
西洋の文化の中で生まれた金唐革を、和紙という日本古来の文化と融合させ、日本独自の産物に移し替えるという日本人の素晴らしい発想力と技術力には驚くばかりです。

                                      (記事 松枝 しげ美)


 
 第2部は8回目の発表になります岡田 英三郎会員より「帝のご意向は「綸旨紙」で」です。
綸旨紙とは天皇の私的な組織(令外官)であった蔵人所が天皇の意向を受けて出した文書で、漉き返し紙が用いられ色は薄墨を呈する。
もともと漉き返し紙を利用した下書的な文書が公式なものとなったかと思う。

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後醍醐天皇の時代に「二条河原落書」に「此頃都ニハヤルモノ 夜討、強盗、謀綸旨・・」と始まる文章が立てられた。このころ後醍醐天皇は天皇政権の復活を目指し綸旨を濫発したため、謀の綸旨もあったのではないか。
後醍醐天皇の綸旨は出雲大社にも残っている。普通の料紙、漉き返し紙でない、ルール違反の紙を使っている。
これは当時石見地方では綸旨紙の製法を知らなかったのでは?

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「中世の貴族」展で見た「二条天皇綸旨」は漉き返し紙ではなく染め紙を用いたもので、これは にせ綸旨と判断。
江戸初期にはまだ染め紙がなかったためです。
綸旨の始まりは治安元年(1021)後一条天皇綸旨で終わりは慶応四年の明治天皇綸旨(八瀬童子文書)で約800年間の歴史がある。
綸旨紙がどのようにして製紙されたか細やかな技術は不明で技術の再現が不可能です。
江戸時代中頃に漉き返し紙から染め紙に変わっていった。
綸旨紙の構成はだいたい正文と案文(写し)の2通が作られます。

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薄墨色の紙は権威のある文章であるというイメージができていたので、これを利用して綸旨紙もどきが出てきました。
吉田神道の「宗源宣旨」がその一つで朝廷の権威を利用して、全国の神社を支配下に置こうとしたものです。
唯一絵巻に書かれた綸旨紙で「絵師草紙」がある。
古文書は文章を読めなくても紙の素材や継ぎ目を見るといういろいろな楽しみ方があります。

                                         (記事 岸本 幸子)

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