活動内容

第68回研究発表会報告、堂園 光子会員・岡田 英三郎会員(15.01.08)

 68回研究発表会報告、堂園 光子会員・岡田 英三郎会員(15.01.08)

◆日 時:平成2718日午後110分~午後400

場 所:ひとまち交流館 京都 3

研究発表:1. 古事記は面白いパート4 堂園 光子 会員

2.節分の豆撒きと追儺―深泥池始原伝承を追って―岡田 英三郎 会員

参加人数:31

参加費 :300   一般参加費 :500

 

第1部は堂園光子会員で「古事記は面白い」シリーズ4回目です。前回は大国主命の国譲りまでで、今回はいよいよ天孫降臨からのお話です。天照大御神(アマテラスオオミカミ)が長男に天降りを命令しましたが、その子供のニニギノ命に行かせることになりました。
天孫降臨とは・・
天=天照大御神、孫=ニニギノ命が降臨した。ということです。上田正明先生の説では天照大御神は持統天皇でニニギノ命は後の文武天皇と言われています。持統天皇は孫を天皇にしています。自分の行為を正当化するために古事記のストーリをこのようにしたと言われています。持統天皇の諡号は高天原廣野姫天皇で「高天原」が入っています。これは天照大御神を自分のモデルにしているということです。

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ニニギノ命が天降りの準備をしていると八衢(やちまた)(八は多いで、衢は道の遭うところ)に、光る神がいました。それは猿田毘古神(さるだびこのかみ)でニニギノ命の天降りの先導をしました。天照大御神はニニギノ命に家来を付けました。天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、イシコリドメ命、玉祖命、の五伴緒で5つの職業集団です。さらに思金神、手力男神、天石門別神の併せて8つの神を同伴させました。
三種の神器も持たせます。この時の鏡は現在伊勢神宮の内宮に祀られています。雲にそびえる高千穂の~♪の歌がこの天孫降臨の内容の歌です。ニニギノ命は天の八重にたなびく雲を押し分けて、竺紫日向(つくしのひむか)の高千穂に天降りました。どうして出雲で国譲りがあったのに九州に降りてきたのか?
これは伊邪那岐命が出雲で黄泉の国から逃げてきて、禊をするために竺紫日向に行っています。その時に生まれたのが天照大御神で、竺紫日向は天津神にとっては聖なる場所です。

 


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 つぎがニニギノ命の結婚です。ニニギノ命は笠沙の岬でとても麗しい美しい乙女に出会い一目惚れをしてしまい、そして名前を聞きます。古代に名前を聞くということは求婚を表しています。昔は呪いを恐れて名前は隠していました。美しい乙女は大山津見神の子、木花佐久姫です。と答えました。父は結婚を大変喜んで多くの持参金と姉の石長姫も贈りました。ニニギノ命は石長姫のあまりの醜さに恐れをなし、石長姫を実家へ帰してしまいました。
大山津見神は石長姫を嫁にすると雨が降っても雪が降っても永遠に生きていられるためだった。従って石長姫を帰したので不死身ではなく神の子でも死を覚悟することになったようです。
木花佐久姫はたった一夜でニニギノ命の子供を身ごもりました。しかしニニギノ命は自分の子ではないと疑いました。木花佐久姫は天津神の子なら無事に出産できでしょう。と言って産屋を建て中から土を塗って出られないようにし火をつけ、そして火の中で三人の男の子を生みました。ホデリ命(海幸彦)、ホスセリ命、ホヲリ命(山幸彦)です。火の中で生んだので名前に「ホ」が付いています。三男のホヲリ命(山幸彦)が天皇家の祖になります。
 

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 海幸彦の釣り針を失くした山幸彦がワダツミノ神の宮殿に行き桂の木の上で座っていました。山幸彦はそこでワダツミノ神の娘の豊玉姫に出会いお互い一目惚れをします。山幸彦は宮殿に迎えられ豊玉姫と結婚します。この内容が浦島太郎の原点です。
山幸彦はそこで3年間豊玉姫と楽しく暮らします。この海で山幸彦が無くした兄の釣り針を見つけ海幸彦に返しにいきました。返す時に後ろ手に返します。これはマジナイで海幸彦はどんどん貧しくなり苦しみ、後に山幸彦の家来になりました。昔、教科書で学んだ時は兄の海幸彦は意地悪で弟の山幸彦をいじめているような書き方だったと思いますが実際に古事記を読んで見方が変わりました。
そして山幸彦と豊玉姫との間に鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアヘズノミコト)が生まれました。鵜葺草葺不合命は豊玉姫の妹の玉依姫に育てられ結婚します。そして4人の男の子を出産します。
四男が後の神武天皇です。ここまでが上巻で次回が人間の世界に入っていく中巻からです。

 

                             (記事 岸本幸子)


 

2部は 節分の豆撒きと追儺―深泥池始源伝承を追って―

現在全国の社寺で行なわれている節分における豆まき行事が、深泥池で始まったという伝承の由来を探る・・・6回目の発表となる今回の岡田英三郎会員のテーマです。

岡田会員の住まいのすぐ近く、深泥池のある地域には、豆撒きに関わる上賀茂の民話『豆塚』『ます塚』が残っており、ますそれをご披露下さいました。

 

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黒川道祐や北村琴吟などが書いた江戸時代の日記や地誌あるいは歳時記に、深泥池村では疫病を退散させるために貴船神を勧請し、神輿をかつぎ、神輿を担いで池の周りを回ったあと、豆を撒くことで鬼を追い払ったことが記されています。

さらには室町時代に完成していたとされる『壒嚢鈔(あいのうしょう)』という辞典にも、豆撒きで鬼を追い払ったという行為を書き記した記事が見られるほか、室町時代の御伽草子の中にも鬼を退治するために豆を撒き、イワシを家の門に差しておくことが述べられています。室町時代より民間における豆撒き行事が行なわれていたわけです。


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節分の鬼退治はもともと大晦日の宮廷行事である「追儺」が、民間に広まったといわれています。しかし、そもそも鬼とはどんなものをさすのでしょうか。古代における疫病、自然現象、政治の不安定などは、目に見えない力が働いて起こる災い、つまり「オニ」などの仕業と考え、退治して追い払う必要がありました。

 

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深泥池地区は鞍馬街道のメインストリートで、鞍馬や貴船と結びつきやすかったこと、周辺に塚、つまり古墳が多かったこと、神秘性のある池があったこと、都に近かったことなどが影響して、さきほど触れた伝承や民話が残っているようです。

来月にはいよいよ節分行事が各関係社寺で始まります。皆様もぜひ楽しんでみてください。

(記事 松枝 しげ美)

 

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