活動内容

第75回研究発表会報告、菊井 俊彦会員・古山 精一氏 (15.10.01)

第75回研究発表会報告、菊井 俊彦会員・古山 精一氏 (15.10.01)

◆日 時:平成27年10月1日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「東洞院通」を歩く―丸太町通から五条通まで― 菊井 俊彦会員
      2.「八坂神社創建と四条通の原像」 古山 精一氏
◆参加人数:32名
◆参加費 :500円   一般参加費 :700円

 第1部は 通算8回目となる菊井 俊彦会員より「東洞院通」を歩く―丸太町通から五条通まで―についての発表です。
なぜ「東洞院通」を歩くのか。前回歩きました「松原通」は戦国期京都の下京の南限でした。「東洞院通」は同じく下京の東限に当たります。そして、戦国期京都は京都が上京・下京という最小規模の町なみに縮小していました。この縮小された上京・下京が織豊期・徳川期にどのように開発され、整備されて現在のような町なみが形成されてきたのか興味のあるところです。
しかし、道歩きのお話は、私の興味・関心の赴くままですので、時代的な流れはありません。いつものように、あらぬ方向に話が飛んでゆくのはお許しください。

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 平安時代中期には東洞院通末は形成されていましたが、同志社大学今出川キャンパスで東洞院通末に該当すると思われる石敷道路が発掘されています。室町時代中期に相国寺の西限として再整備されたようです。
その同志社大学図書館の西側に元啓真館の遺構として、車寄飾金具・獅子口が残されています。これは旧徳大寺家跡にあった華族会館京都分館を進駐軍の接収後、昭和27年(1952)に同志社大学が譲り受けたものです。
足利義昭の「武家御城(旧二条城)」は足利義輝御所跡に、織田信長によって二重の堀を持つ三町規模の城として作られました。
『社家条々記録』に、冷泉東洞院方四町が少将井御旅所の敷地として寄付されたと記されています。この少将井社は町田本や上杉本の「洛中洛外図屏風」にも描かれています。しかし、豊臣秀吉によって、少将井社は四条寺町の御旅宮本町に移転させられ、跡地に祠が建てられますが、これも明治初年、宗像神社に遷されました。

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 東洞院通の出水通から二条通の間に三本木一丁目から六丁目までの町なみがありました。その名残が丸太町下ルの三本木町や竹屋町下ルの三本木五丁目です。宝永の大火後の公家町の形成の中で三本木一丁目から三丁目は丸太町橋の北の東三本木通と頂妙寺東側の新東洞院通に移転させられています。
「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれている曇華院は高倉宮以仁王の御所跡に建てられています。門跡寺院として盛衰を繰り返し、明治にいたり嵐山鹿王院の隣に移転しました。
阪東屋町の薩摩屋敷は18世紀初めから明治に上知されるまで、薩摩藩の本邸として機能していました。幕末期には拡張するとともに、二本松屋敷、小松原屋敷などが構えられました。
この付近に明治22年(1889)、京都取引所が移転してきます。業容の拡大に伴い敷地を買い増し、立派な関連施設が建てられました。当然、証券会社も集まり、大阪の北浜にならって“京はま”と呼ばれるようになりました。

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 悪王子社も「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれています。この後、転々として、現在は八坂神社境内に遷されています。今、元悪王子町にある祠は平成10年(1998)に分祀して建てられたものです。
渋谷にあった仏光寺は、広大な敷地を持ち、本願寺が本願寺中心主義を唱えるなか隆盛を極めます。しかし、延暦寺の圧力に耐えかねた経豪が42坊を引き連れて本願寺蓮如を頼ります。残された6坊は経豪の弟、経誉を住持として仏光寺を維持します。この後、豊臣秀吉の大仏殿建立によって現在地に移転させられました。
                                      (記事 菊井 俊彦)


 
 第2部は古山 精一様より「八坂神社創建と四条通の原像」です。逓信建築史がご専門の日本建築学会員です。
平安京創生館案内ボランティアが縁で、都草の研究発表会でお話を致しました。
今回の講演では、京都でお馴染みの八坂神社についてその創建の契機と経緯を、社殿建築を交え、また、四条通は愛宕郡条里の里境の道が基であった、というお話を致しました。
 八坂神社の創建については、様々な説がありますが、史料を検討すると、元慶1年(877)に、前年9歳で即位した陽成天皇が、一代一回の大嘗会を控えて、恐らく天然痘にかかったことが創建の契機となった、と推定されました。

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 直接的な証拠はありませんが、陽成天皇が不予から回復した直後に、父の清和上皇が禅林寺に御願堂用地を下賜、母の藤原高子が東光寺を建立、摂政基経は天皇の回復御礼に春日社へ直接奉幣を行っています。元慶3年には、惟喬親王の皇太子を願いながら急死した祖父文徳天皇の陵寺である天安寺へ墾田施入が行われています。また、八坂神社の「社家条々記録」では、元慶1年に疱瘡が流行したが、祇園社を見つけて奉幣したところ収まり、基経が精舎を寄進したこと、さらに「二十二社註式」掲載の太政官符では、貞観18年(876)に常住寺の円如が観慶寺(祇園寺)・祇園天神堂を創建したことを伝えます。これらのことは、すべて幼い陽成天皇の不予を契機としており、「観慶寺」が「貞観」と「元慶」の年号を取ったものから、元慶初年に祇園天神堂が創建されたと考えられるとのことです。

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 「社家条々記録」では、勅使が祇園社を見つけたということですが、恐らく円如と云う僧侶が基経に働きかけたと想定されます。祇園の丘は平安初期紀氏の祖先祭地として下賜されましたが、紀氏が凋落するに従い祭祀が行われなくなり、円如はその祟りであると託宣があったと話したかもしれません。また、当初の社殿は「檜皮葺五間神殿1宇と同じく礼堂1宇」の並堂で、17年前、これも紀氏の僧行教が創建した石清水八幡宮を見習ったように思え、円如自身も紀氏有縁の人かもしれません。
 さて、八坂神社の隆盛は平安京中央四条通の突当りという好位置にあったためですが、この四条通は、四条大路を延ばしたものでなく、どうやら愛宕郡条里の里境の道が元々あったようです。北方は「曼殊院道」が11条と12条の里境、南方は「松原通」が3条と4条の里境として、図上計測で1里647m、1町107.9mとなるようです。南北里境は、六波羅蜜寺寺域、国立博物館の発掘から三十三間堂の東側の道が里境中間に当るとして、愛宕郡条里を図上に推定復元されました。

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 この条里によると、四条通は愛宕郡4条と5条の里境、三条通は5条と6条の里境の道が基になっていると判断されます。また、吉田の小字「法光院」北側境(近衛中学南の道)は7条と8条の里境痕跡とされます。
最後に、祇園の東、東山山頂には古墳時代中期の「将軍塚古墳群」が存在し、祇園の丘は古くから神祀りの丘だったとされ、開発氏族の祖先神、農業神、そして平安京以後は都市民の神として、性格を変えながら長く尊崇を受け続けた、とのことです。(記事 古山 精一)

                                        (広報部 岸本 幸子)

 

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