活動内容

第66回研究発表会・報告菅沼 孝一会員、桜井 英成会員(14.11.24)

 第66回研究発表会・報告菅沼 孝一会員、桜井 英成会員(14.11.24)

◆日 時:平成26年11月24日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「内山永久寺庭園の特徴と栢杜遺跡等に見られる重源の空間意匠の比較考察」        菅沼 孝一 会員
      2.「京都の河川の変遷について」 櫻井 英成 会員
◆参加人数:26名
◆参加費 :300円   一般参加費 :500円
 
 第1部は「内山永久寺庭園の特徴と柏杜遺跡等に見られる重源の空間意匠の比較考察」第7回京都検定合格者の菅沼会員。帯広在住にもかかわらず、現在でも京都産業大学上席特別客員研究員としてご活躍されています。『京都産業大学日本文化研究所紀要18号』に掲載された菅沼会員の論文より、奈良県天理市にある内山永久寺庭園の特徴と、それ以降進められた庭園の研究より、重源の空間意匠を比較考察についてお話下さいました。
 

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 鳥羽院の勅願で永久年間に創建された永久寺。極端な衰退期を経ず明治初年を迎えたものの、廃仏毀釈により廃絶。しかし、浄土庭園と石上神宮境内に残る国宝の拝殿など、在りし日の景観が偲べる非常に貴重な庭園遺構ということが出来ます。
極楽浄土を体現するために、仏堂と池が一体的に造営されたことが浄土庭園の特徴ですが、永久寺もやはり丈六阿弥陀仏を安置された阿弥陀堂の前に浄土庭園が広がっています。
また立地条件から、夏至の頃を中心に、西日が本堂に入り、丈六の阿弥陀仏が美しく輝いていたことが推測できます。
 

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次に、光輝くお堂や仏像といえば、兵庫県小野市にある浄土寺をすぐに思い出します。浄土寺は、治承4年、平重衡の南都焼き討ち後の東大寺復興に尽力された重源上人の7別所の内の一つにあたります。
浄土寺浄土堂の裏手に大きな池があり、その池に反射する光、また浄土堂に直接差し込む光など、光の意匠を用いて阿弥陀来迎の様子を具現化し、民衆強化には絶大な効果を発揮したと考えることだ出来ます。
さらに、重源上人の伊賀別所である新大仏寺。
眺望はあまり効かない立地条件ですが、浄土寺と同じ快慶作の阿弥陀如来像と、周囲の岩山を利用したことが、上人の記した『南無阿弥陀仏作庭紀』の中からも垣間見ることが出来ます。
 

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 最後は、重源上人の出身、醍醐寺の境内にある柏杜遺跡についてです。
醍醐山の西麓で醍醐寺の南部に位置し、大変眺望のよい場所であることが分かります。
発掘調査から、八角円堂と方形堂、遣水を伴う庭園などが確認されていて、内山永久寺との類似性が高い庭園遺構であったことがわかってきており、今後の研究が期待されるところです。
このように、これら浄土式庭園はいずれも、極楽浄土を体現するために、仏堂と池が一体的に造営されたものであることが考えられ、当時の人々の極楽浄土への憧れが非常に感じされる庭園遺構だと考えています。
(記事 松枝 しげ美)
 

 
 第2部は櫻井 英成 会員より「京都の河川の変遷について」で、久ぶりの研究発表会です。今回河川について調べることになったきっかけは、西高瀬川についてエッセイ風に執筆して頂きたい。
と依頼を受けたことに始まります。西高瀬川以外にも興味をもち調べているうちに平安時代まで来てしまったようです。
1600年代以降の地図は探せばありますがそれ以前は見つからず色鉛筆で書き足した持参の地図を持っての発表でした。
 

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 平安遷都以前の山背盆地は「此の国は山河襟帯にして、自然に城をなす」とあるように、秦氏を始めとする渡来人が開拓した稔の豊かな盆地で、東に鴨川、西に桂川、その間に小河川がたくさんありました。
平安京造営に際して、碁盤の目状の道路計画にあわせて12本の河川が南北に掘られました。左京には、富小路川、東洞院川、子代川(烏丸川)、室町川、町川、西洞院川、東堀川、東大宮川、右京には西大宮川、西堀川(紙屋川)、佐比川、西室町川です。
多くの河川は市街地中心部を流れ、中水道の役割を果たし、生活の汚物は川に流され下流では相当水質が悪かったことが推定される。飲料水は井戸により安定した地下水を確保することができた。
 

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室町時代は鴨川の氾濫による被害は甚大で桂川も洪水の常習の川でした。秀吉は御土居を築き外からの侵略を防ぐとともに洪水から京都の町を守ろうとした。江戸時代は今出川、西洞院川、小川、堀川、紙屋川が流れ、角倉了以・素庵親子による高瀬川の開削が行われ、さらに河村与三右衛門が計画した西高瀬川が開通した。
慶長16年(1611)、豊臣秀吉が大仏殿再建の資材を運ぶため角倉了以に命じて開削したのが高瀬川です。高瀬川が現在の陶化橋の北側のところで鴨川を横切っていました。鴨川の中に等間隔で杭を打ち並べ、高瀬舟5隻を一列に並べて、その杭に舟腹をそわせながら引っぱり渡したようである。「川が川を渡る」です。
 

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 文久3年(1863)河村与三右衛門が計画した西高瀬川が開通した。これにより桂川系と鴨川系の水運が結びついた。嵐山から伏見で鴨川に合流するまで京都市内の西部を流れる、全長15㎞です。西高瀬川ができたことにより、千本丸太町あたりに材木問屋が生まれた。
西高瀬川は調べてみると意外と新しい時代にできたものです。高瀬川といえば森鴎外の小説にもなるように京都の町中の風景としての代表だと思います。川は現在もどんどん変わっていっております。
(記事 岸本 幸子)
 
 
 
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