活動内容

第45回研究発表会(12.11.14)

 第45回研究発表会(12.11.14)

◆日 時:平成24年11月14日午後1時15分~午後4時
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.『京都の歴史にみえる神』都草会員 岡田英三郎
     2.『白河法皇*平氏一族と保元の乱』都草会員 團 道代
◆参加人数:23名
◆参加費 :300円   一般参加費 :500円
 
第1部 京都に見える紙 (岡田英三郎会員)
 
 前回は「天皇陵」に関する講演をされた岡田さんですが、今回は趣向をガラリと変えて「紙」をテーマに80分お話をして下さいました。実は岡田さんは、『紙はよみがえる』(雄山閣 2005年)などの書籍も出版されているほどの「紙」のご専門家。 日本の和紙だけでなく、様々な紙、あるいは紙と分類できない例を実際に現物を見せて説明下さいました。
<紙とは何か>
まず、「紙」であることには以下の3つの条件を満たす必要があります。
 
1. 植物のセルロース繊維を材料に使っていること。
2. 表面張力を利用し、水素結合によるセルロースの集合であること。
3. セルロース繊維をたたく(叩解)。
 
したがって、中世ヨーロッパで使用された羊皮紙やお菓子などを包む不織布も、叩解されていない理由から、「紙」に分類することは出来ません。
 

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<京における紙の歴史>
次に京における紙の歴史を時代ごとに分かりやすくお話くださいました。
 
1. 平安京以前
文献より7世紀の初め、推古朝の頃から本格的に紙製造を行なっていたようであるこれは仏教における経典や、律令政治における文書作成など、紙の需要が急激に増加した時代でありました。 「山背国愛宕郡出雲郷雲上里計帳」(正倉院文書)に「紙戸」の記載が見える。
 
2. 平安時代~鎌倉時代 
『延喜式』には紙は年料別貢雑物として諸国から上納されるものであることが記載されています。
京に上納された紙の原料は 官営の製紙所「紙屋院」で製造。さらに『延喜式』に紙を漉くための備品についての情報が詳細に記述されています。『源氏物語』や『枕草子』などにも、紙の話題が多く登場しています。
 
貴重な紙が様々な方法で再利用されていました。平安期以降様々な装飾料紙が生み出されました。
しかし、貴族文化の中心であった平安時代の京においては、紙の生産地から消費地へと替わっていき、「紙屋院」も解体へ。
 
 

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3. 室町時代
 商業活動が活発となり、 「座」のような組織に組み込まれます。 『上杉本 洛中洛外図屏風』に西洞院川近くで漉いた紙を干していると思われる様子が描かれています。 解体された「紙屋院」の技術者達が漉き返し紙に生計を求めていたように思われます。
 
4. 江戸時代
 ますます京は紙の消費地へ。 「下京や紙打ち音も冬枯る」(一茶)で見られるように、下京で漉き返しの紙を製造。七条紙は、江戸の浅草紙とならんで悪紙として有名でありました。
 
5. 近代
  梅津製紙場パピール・ファブリック・・・桂川の水を利用した近代的な洋紙生産が明治9年に始まりした。
  (跡地は現在嵐山ロイヤルハイツ)
 
 

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<まとめ>
   京都における紙の系譜を考えるとき、平安期に設置された「紙屋院」の存在が大きかったことが分かります。(紙屋川の語源にもなっているのでは)さらに江戸期において、京で盛んな文化活動を行なった知識人よる出版活動も見逃せません。        
 

 
第2部 白河法皇、平氏一族と保元の乱 (團 道代会員)
 
  『平家物語』のスペシャリストである團会員は、様々な方面でご活躍されていますが、今回は「保元の乱」に絞って、その原因に迫って頂きました。
 
<保元の乱の起こる背景>
まずは、白河法皇が藤原摂関家から権力を取り戻し、57年もの長きにわたって院政を続けることを可能にした要因を下記のテーマに分けてお話されました。
 
 後三条天皇の遺言
 天皇家の氏寺・六勝寺
 成功(じょうごう)の時代
 院政のはじまり
 北面の武士の設置
 
 

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 藤原氏とのゆかりの薄い父を持つ白河法皇は、従来の太政官を無視し、近臣団による政治を行うことを可能にしました。一方で官位と納金(成功という)をうまく利用し、次々に天皇の氏寺や離宮を造営に着手しました。国司として赴任した平氏は、そこで得た膨大な蓄財をそうした寺や離宮の造営費用を負担することによって法皇の信頼を勝ち取り、権力の中枢に昇ってきたことを詳しくお話されました。
 
 次に天皇家の家督相続問題を取り上げられました。堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇と3代にわたる院政を行なった白河法皇ですが、法皇の死後院政を行なった鳥羽上皇は、中宮である藤原璋子(待賢門院)は白河法皇の養女でありましたが、崇徳天皇が白河法皇の子であるという疑念が捨てきれず、寵愛する藤原徳子(美福門院)との間に生まれた皇子・体仁親王(近衛天皇)をなんと3歳で即位させました。この近衛天皇が17歳という若さで崩御された後、崇徳上皇の恨みを恐れた鳥羽法皇は、崇徳上皇の皇子ではなく鳥羽法皇の皇子である雅仁親王(後白河天皇)を即位させてしまいます。院政は自分の子や孫にしか出来ないため、崇徳上皇が院政を行なうことの出来る可能性もこの時点でなくなってしまった訳です。
 
 

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 さらに摂関家の立后競争について触れられました。対立する忠通(忠実嫡男)と忠実・頼長ですが、近衛天皇の後宮政策についても両者の対立は益々深まるばかりでした。頼長が娘・多子を入内させ皇后に冊立させたのに対し、忠通もその3ヵ月後に娘・呈子を入内させて、中宮に冊立さました。この呈子立后にとうとう忠実・頼長は業を煮やし、忠通は父から義絶されて頼長に氏長者職を譲らされるが、多子と天皇の接触を妨害する事などで対抗し、この親子・兄弟間の対立は非常に複雑な敵対関係を作りだしてしまいました。
 
<保元の乱>
家督問題で冷え切ってしまっていた天皇と上皇の関係ですが、それだけでは「保元の乱」は行なわれなかったのではないかと言われています。天皇家の家督問題に併せてさらに藤原摂関家の家督問題が引き金となって、下記のような構図で「保元の乱」が戦われました。
 
 天皇方   VS    上皇方
後白河天皇(弟)     (兄)崇徳上皇
藤原忠通(兄)      (弟)藤原頼長
源 義朝(嫡男)     (親)源 為義
平 清盛(甥)      (叔父)平 忠正
 
 

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<まとめ>
 天皇側の夜討ちによってわずか4時間ほどで決着のついた保元の乱ですが、その影響はあまりに大きいものでした。 この乱は初めての都の中でのいくさでありましたし、この乱を抑えた一番の功労者である源義朝は父である為義や実弟を、平清盛は叔父である忠正を処刑することになるのですが、これは薬子の乱以来行なわれていなかった都の中での処刑が350年ぶりに復活することになってしまいました。そのため「保元の乱」が武士の世の到来といわれる所以であります。
 
 
 
(記事 松枝しげ美)(写真協力 長田拓志会員)
 
(事務局 岸本幸子)
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