活動内容

第24回都草研究発表会(10.11.15)

 

          484-宮川教授と伊藤仁斎.JPG         

          ★人間伊藤仁斎は、温厚だが意志が強固、ラジカルな素質を持っていた!

 

第24回都草研究発表会(10.11.15)

◆日 時:11月15日(月) 午後1時15分~

◆場 所:ひとまち交流館京都 2階

◆講 演:「伊藤仁斎と古義堂について」 京都産業大学日本文化研究所長 宮川康子教授

◆研究発表予告:「幕末変動の真相もう一つの視点」 都草会員 藤野敦士

◆お 話:「坂本龍馬に関係するそれぞれの写真について」 都草会員 山本喜康

◆参加人数:32名

◆会 費:500円

           486-宮川教授立ち姿.JPG   

★同志会の話のところでは、同志と討議を重ね何かを創るという点で今の「都草」も同じですね、と宮川教授

都草の事務所のあります京都府庁から、西にそれほど遠くないところに伊藤仁斎古義堂跡(上京区東堀川通下立売上る東側)があります。江戸時代の京都の主な私塾の一つです。他の私塾としては、松永昌三(尺五)が開いた講習堂(中京区東堀川通二条下る東側)が早いもので、どちらも明治時代にいたるまで子孫によって代々受け継がれました。山崎闇斎の私塾(葭屋町通下立売上る東側)は堀川を挟んだ向かい側にあたります。また皆川淇園の弘道館(中立売通室町西入る)はこの11月に公開されました。宮川教授は以前古義堂を訪れた際、膝が入るのかしらと思うほどの小さい机を目にして感動したと話されました。伊藤仁斎は江戸前期の儒学者で古学堀川学派の祖。母が連歌師里村紹巴の孫で、外祖母は角倉了以の姪。最初の妻は尾形光琳・乾山兄弟の従妹にあたる尾形嘉那。長男が東涯。親戚・交友には富商が多く町人文化の一級のものを享受しました。小さい時より学問に邁進し、10代半ばでは朱子学に傾倒、その後「敬斎」と号するもあまりに傾倒し過ぎ、精神的病に臥す。自分が病に臥したのは、朱子学をやり過ぎたからだと結論付け、朱子学を大胆に批判しました。その思想を孔子・孟子本来のものと異なるとし、孔子の言葉を徹底的に研究、『論語』を最上至極宇宙第一の書と読んで尊び、孔子・孟子の言葉を直接読んで正しいと悟ったことが再生の第一歩となりました。(宮川教授がシンポジウムで中国や韓国の学者とお話をした際、論語とはそのようにすごいものですか?仁斎のようなことを言った人はいません、と言われたそうです。)彼の有名な言葉として「愛は実徳」、があります。つまり愛というものは「抽象的な概念ではなく、実体のある真心である。愛の完成した形が『仁』だ。」とし、「敬斎」から「仁斎」と号しました。また、同志会を開き、同志達との討議を経て、古義学が形成されていきました。途中、塾を開き、著作に励み推敲を重ね、最後の本『童子問』に至りました。伊藤仁斎は死ぬまで本を書き換えることを止めませんでした。門人帳には多くの僧侶の名前もあり、古義学の精神が佛教にも影響を与えているといわれています。最後に宮川教授は、「本当の意味で伊藤仁斎を研究している人がいない。折角京都に居るので、これからさらに研究を深めたい。」とお話されました。

 

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★人間への愛を説いたヒューマニスト伊藤仁斎、彼から日本のものの考え方が開かれていったと声を大にして言いたいと宮川教授

 

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         487-藤野さん.JPG     

★お楽しみに! 12月に発表の「幕末変動の真相もう一つの視点」について概略を述べる藤野敦士会員

 

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   ★「龍馬ウォーク」でお客様に大変好評だったご自慢の写真資料!説明する山本喜康会員

    490-龍馬写真と会員たち.JPG

    ★興味深々!貴重な写真の数々に見入る会員の方々

現在7枚存在する龍馬の写真を全て見ることができ、稀有な機会でした。後藤象二郎の顔写真、龍馬が書いた船中八策のコピー、龍馬の本名は「直柔」(なおなり)であるということや近江屋の遭難現場に置かれていた屏風の絵、猫と牡丹に53滴の血が飛び散っている話など、興味が尽きない内容でした。幕末ファンには垂涎の的の写真も多々ありました。

 

(事務局 小松香織)

 

 

 

 

 

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