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第117回研究発表会報告、堂園光子会員、住 邦夫会員(21.12.24)

第117回研究発表会報告、堂園光子会員、住 邦夫会員(21.12.24)
 YouTube 期間限定 1月7日(金)午前10時から1月13日(木)午後5時まで
    会員のみ特別公開 
 
◆日 時:令和3年12月24日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
 
◆研究発表:1. 日本書紀その4斉明天皇から天智天皇まで 堂園 光子 会員
 
      2.「和歌と短歌」あれこれ  住 邦夫 会員
◆参加人数:ひとまち 33名
 
 
第1部は、 日本書紀その4斉明天皇から天智天皇まで 堂園 光子 会員です。
 斉明天皇の時代(在位655~661)、日本は初めて国際的な危機に面しました。
660年百済が、唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされたからです。

 滅ぼされた百済では生き残った人たちが鬼室福信を中心として唐・新羅に対抗してゲリラ活動をしていました。その応援に日本は駆けつけます。
船団を組んで九州の娜大津(なのおおつ=博多港)まで行き2か月後朝倉(福岡朝倉町)に宮を建てたのですがそこで斉明天皇はあっけなく亡くなります。
高齢(68歳)の女帝には5か月もかかったこの旅行は答えたのだと思います。

 その後、中大兄皇子が称制(即位せずに政務をとること)します。
その後、白村江の戦いで日本は全敗します。
戦後、唐が攻めてくるという脅威で都を大津に遷します(667)。
翌年(668)中大兄皇子は即位します(天智天皇)。

即位して3年後に天智天皇は亡くなり、翌年(672)壬申の乱が起こります。
次は壬申の乱からお話しさせていただく予定です。
                         (会員 堂園 光子)
 
 
 



 
 
第2部は、「和歌と短歌」あれこれ  住 邦夫 会員です。
 和歌や短歌は、日本人の心を深いかかわりのある文芸です。「日本精神史の追求」という、いささか遠大な課題に取組んできた私としては、ぜひ挑戦したいテーマの一つでした。このたび都草の研究発表会で発表することができ、永年の望みがかなえられました。

 和歌の全盛時代は、王朝らしい王朝の時代とも言える天智天皇から後鳥羽、順徳両天皇までの時代に、ぴたりと一致します。
後鳥羽、順徳の両帝は承久の乱に敗れ、それぞれ遠島に流されて不遇の一生を終えました。あとは武士の時代に変ります。
 藤原定家はこの王朝時代を追悼する歌集として「小倉百人一首」を編纂し、自分もまたこの中の一人として登場し、歌人としての人生に終止符を打ったのです。

 
  さて明治以降は和歌は短歌と名前を変え、中身もかなり変えて再出発しました。
 昔の王朝時代の隆盛を再現しようと数々の企てがなされましたが、必ずしも思うようになっていないようです。

 明治時代に見捨てられた和歌の数々の伝統は、今日から思えば意外に大切なものだったのです。
 和歌と短歌は再び結びつくことが必要でと思いますがそのために「本歌取り」の技術が有効な手段になると私は見ております。
                               (会員 住 邦夫)
                             (広報部 岸本 幸子)
 
 
 
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