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第111回研究発表会報告、岡田 英三郎 会員、堂園 光子 会員(20.12.24)

第111回研究発表会報告、岡田 英三郎 会員、堂園 光子 会員(20.12.24)
 YouTube 期間限定 1月6日午前10時から1月12日午後5時まで
    メール会員のみ特別公開 
 
◆日 時:令和2年12月24日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
 
◆研究発表:1. 「山城国の式内社」 岡田 英三郎 会員
 
      2.「日本書紀その3 舒明天皇から孝徳天皇まで」 堂園 光子 会員
◆参加人数:31名
 
 
 
第1部は、「山城国の式内社」 岡田 英三郎 会員です。
 9月に発表予定をしていた「山城国式内社」は、コロナウィルス騒ぎで今回に延期になった。データを纏めている3月から6月にかけて、未訪問だった15社(全部で90社)を参拝し、完全踏破できた。全て交通不便な郊外に鎮座していたので、3蜜を避ける行動にはもってこいだった。

 この時期、自宅での読書時間も増える中、近刊の馬部隆弘『椿井文書―日本最大級の偽文書』に出会った。「椿井文書」は、山城国式内社とも関りがあることを知った。さらに、江戸時代の並河誠所の『五機内誌』が式内社比定に重要な役割を演じており、両書が後の式内社比定に大きな影響を与えていることを知った。

 研究発表では、先ず式内社とは何かということを説明した。次いで訪問した山城国式内社のいくつかを紹介するとともに、式内社の比定(特に小社)に問題があることを指摘した。

 式内社の盛衰についても言及を予定していたが、時間の関係で十分説明できなかった。
後日を期したい。(会員 岡田 英三郎 )
 
 


 
 
第2部は、「日本書紀その3 舒明天皇から孝徳天皇まで」堂園 光子 会員です。
 推古天皇の時代皇太子であった聖徳太子が亡くなり(622年)その6年後(628年)推古天皇が皇太子不在のまま亡くなりました。

次の天皇になる最有力候補は山背大兄皇子(聖徳太子の子)と田村皇子(後の舒明天皇)です。当時の最大の実力者である蘇我蝦夷は強引に田村皇子を推しました。
山背大兄皇子は100%に近い蘇我氏の血を受けていますが蘇我氏との仲は大変悪かったようです。田村皇子には蘇我馬子の娘、法提郎媛(ほてのいらつめ)との間に古人大兄皇子が生まれていました。そこで古人大兄皇子を次期天皇にするためにその父である田村皇子を天皇にしました。このことが16年後の大化改新(乙巳の変)の遠因となります。

舒明天皇には別に宝皇女(後の皇極天皇)との間に中大兄皇子がいます。
舒明天皇の死後二人の皇子はまだ若かったので天皇になれず、蘇我蝦夷は古人大兄皇子を天皇にするためのつなぎとして皇后であった宝皇女を天皇にたてます(皇極天皇)。その2年後、蘇我入鹿は古人大兄皇子の有力な競争相手である山背大兄皇子を殺害します。ところが今度は中大兄皇子が自分が天皇になるために古人大兄皇子の後ろ盾である蘇我入鹿を暗殺してしまいます。これが大化改新(乙巳の変)です。

 日本書紀は、とことん蘇我蝦夷・入鹿の親子を悪者扱をしています。それは大化改新を正当化するためです。大化改新はクーデターであり暗殺です。これは当時でもなかなか受け入れられなかったと思います。
この後、皇極天皇の弟であり、中大兄皇子の叔父である軽皇子が即位します。孝徳天皇です。けれどもこの天皇も中大兄皇子に裏切られ一人寂しく難波の宮で亡くなり、その子有馬皇子も中大兄皇子にはめられ殺されます。
大化改新で後ろ盾を失った古人大兄皇子は出家して吉野にこもりますがこれも無理に謀反の疑いをかけられて中大兄皇子に殺されます。
 今回はここまでで次は斉明天皇から天武天皇までを予定しています。(会員 堂園 光子)
 
                                (広報部 岸本 幸子)
 
 
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