活動内容

わくわく倶楽部(フィールドワーク)椹木町通を歩く(19.3.13)

わくわく倶楽部(フィールドワーク)椹木町通を歩く

    日 時 : 2019年3月13日(水曜日) 10時~12時
    参加者 : 16名
    出 発 : 京都市営地下鉄丸太町駅北口改札
    到 達 : 二条城北小学校―→千本通

椹木町通は烏丸通から千本通までの東西の東向き一方通行の狭い通りです。
今回は、椹木町通約1.4㎞を完歩しました。

椹木町通は時代により東西の端が変わっています。
宝永5年(1708)に発生した“宝永の大火”以前は東の端は寺町通でした。
大火により北は今出川通、南は錦小路通、西は油小路通、東は鴨川畔に至る広大な範囲が焼失しました。その後、焼失した禁裏の再建とともに公家町が拡張、整理され、現在の京都御苑の規模になっています。大火以前は烏丸通東側と丸太町通北側には公家の邸宅や町家が入り混じって建っていましたが、大火後、町家は鴨川の東や内野などに集団移転させられています。椹木町通も公家町拡張により東の端が烏丸通に変わっています。「新…通」の話は、またの機会に。

①京都皇宮 『探求標』
御料地の境界を示す標石です。正面に探求標、左側面に宮内省の宮の字が右側面に界という字とその下に漢数字が、上面にTの標が彫られています。
明治27年御料地測量規定が制定され、全国にある御料地の査定及び測量に着手されましたが充分ではなく、再度明治32年御料地境界踏査規定を定め境界を示す標石「界標」と付属標の「探求標」「指導標」を建設されています。(「帝室林野局五十年史」より)

京都御苑で探求標を探してみました。探求標6ヶ所と御料局標が1ヶ所、京都御苑を囲む土塁の上にありました。探求標の側面の漢数字は設置された探求標の№ではないかと思います。漢数字に三?(一桁目が不明瞭)と彫られたものが2ヶ所あり、探求標は30ヶ所以上設置されていたのではないかと思います。探せばもっと見つかるかも知れません。


②椹木町通烏丸西入ル南側・民家北東の角石
非常に変わったキノコ型の石は鬼門除けでしょうか?

③小川金正堂の壁に掛けられた「烏丸迎賓館通り」の木製看板? 
烏丸通の今出川通から丸太町通間を烏丸迎賓館通りともいうそうです。


④日本最初盲唖院創建之地(日本赤十字社・京都第二赤十字病院南側・B棟)
明治12年に「京都盲唖院」が古河太四郎や槇村正直知事らの尽力によりこの地に移転開校しています。校舎は恭明宮や閑院宮の一部を移築し職業教育棟や寄宿舎も設けられました。4人乗り無料送迎人力車も用意されています。グラハム・ベルやヘレン・ケラーも訪問されたようです。
平成30年に「京都盲唖院関係資料」総数3000点が重要文化財に指定されています。



 日本初、京都での盲唖教育は
明治8年頃 猪熊通下立売下ル大黒町待賢小学校内に瘖亜教場を設ける
明治11年 東洞院御池上ル船屋町(現在スポーツ館ミツハシ)に仮校舎
     (呉服商下村正右衛門所有の建物・無償)京都盲唖院開校
明治12年 釜座通丸太町上ルこの地に移転開校しています。

⑤體育所と京都盲唖院寄宿舎(病院北側・C棟)  
北垣国道知事が就任直後の明治15年に「大道場」と呼ばれた体育所を設立。府下の学校教員や生徒、市民が武道を研鑽する場として使用されました。(前任の槇村知事は府令をもって剣術を禁止していました)
他府県より盲唖院への入学者が増えたため体育所の北側にあった合薬会社から土地を購入し、閑院宮の一部を移築して寄宿舎を増設しています。後に琵琶湖疏水工事が開始された影響で、盲唖院への府からの補助金が止められ、寄宿舎は手放されています。 

  

⑥銭幸餅【京の老舗受彰店】
嘉永5年(1852)創業。お店の名前が付いた銭幸餅は毎年事始めの12月13日・14日に“みやこめっせ”で開催される京料理展示会のみで限定販売される人気商品です。売切れが予想されますので、ご予約をお勧め致します。


⑦小堀邸前の長い石
立派なこちらのお家は、京生麩の「麩嘉」さんの御本宅です。中はお店と繋がっているそうです。前に置かれた大きな長い石は…?


⑧東魚屋町・魚棚通
この辺りは良質の地下水に恵まれ、昭和2年に日本最初の京都中央卸売市場が開設されるまでは魚問屋が軒を連らね、魚棚通と呼ばれていたそうです。覚えておられますか?前に歩いた六条通も魚棚通でした。

⑨入山豆腐店【京の老舗受彰店】
創業文政12年(1829)今年で190年になります。
滋野井の名水を使用し、おくどさんで国産大豆を炊き上げた昔作りのお豆腐屋さんです。八代目の御店主は数々の情報番組に出演された有名人です。新商品の豆腐ドーナツを熊谷さんに御馳走して頂きました。



 『とびぐち』マークを発見!安田火災のシンボルマーク、社章だそうです。火消の七つ道具の一つの鳶口を二本交差させ保険という意味の“Insurance”の頭文字のIと組み合わせ水の字に見立て、“火災に対する保障”を表しています。このマークは燃えにくい革や金属で作られ、契約先の玄関や門に取付けられています。公設消防がなかった明治26年に私設消防隊をつくり、24時間365日体制で火事が起こると鳶口マークが付いた半纏を着て、契約先に駆けつけ消火作業にあたったそうです。もちろん保険金も支払われます。金閣寺の総門にも鳶口マーク(東京火災)が取付けられています。

⑩(株)芳村石材店・石に茂(ISIMO)【京の老舗授彰店】 
享保年間に京都北白川村で創業。堀川の水路を利用して石を運ぶためにこの地に移転されています。

【都の魁・石工ノ部】

⑪西堀川通の「堀川京極」
大正中期頃、西堀川通の中立売通から丸太町通の両側に商店街の先駆けとなる「堀川京極」が造られています。
アーケードのような鉄骨アーチのテントを設置し、私費で道を舗装し、自転車や馬車の通行を禁止した歩行者天国のようなものを設け、250店舗にもおよぶ様々な小売店と2つの映画館、3つの銀行、2つの市場やカフェ、喫茶店、飲食店等が立ち並ぶ市内有数の繁華街として栄え、夜には燦々とライトを照らし人手のピークは21時頃と不夜城、歓楽街となっていました。
しかし、昭和20年(1945)空襲に備えて堀川通の戦時建物強制疎開が行われ「堀川京極」は撤去され、戦後50M幅の堀川通が出来ています。 


⑫聚楽城 武家地 直江兼続・上杉景勝屋敷推定地石碑と副碑
ここより北へ800Mの上京区黒門通一条上ル西側にも「聚楽城 武家地 上杉 景勝屋敷跡」の石碑があります。ほぼ同時期に建てられています。


⑬大黒町・堤瓦商店
ひときわ目立つ堤瓦商店さん。こう災害が多いと瓦屋さんは大忙しでしょう。こちらは大丈夫だったのでしょうか?

ここから猪熊通を北に80Mほど歩いた所にも堤瓦商店があり、そちらの前に日本盲唖教育発祥之地の石碑が建っています。明治8年頃この地にあった待賢小学校内に同校教員の古河太四郎氏らによって日本初の「瘖唖教場」が設けられました。その後に盲児の教育も一緒に行われるようになりました。


⑭佐々木酒造   
明治26年創業の日本酒製造販売店。現在の御当主は4代目佐々木晃氏です。この辺りは、千利休が茶の湯に使ったといわれる良質の地下水「銀名水」が豊富に湧き、室町時代中頃には300軒もの造り酒屋があったそうです。創業された明治時代中頃には131軒の蔵元があったそうですが、現在はこの佐々木酒造1軒だけが残っています。
驚きました。皆さん一番興味があるお店かと思っていましたが、素通りでした。辺りには甘い良いお酒の匂いが漂っていました。

⑮二条城北小学校 
出水小学校(上京第14番小)と待賢小学校(上京第17番小)が合併し、平成9年にこの二条城北小学校は開校しています。

この辺りは組紐や飾り房紐の生産が盛んで、良質の地下水が湧くためそれに関連した糸染めや撚糸等の職人も多く住まわれていたようです。水の良し悪しで糸の仕上がりに影響がでるそうです。二条城北小学校の校章は組紐がモチーフになっています。地域の特徴が上手く織り込まれています。


椹木町通は、水の恵みを受ける数々の職種の職人さんが住まわれ、職住一体の昔ながらの庶民的な民家が続いていました。
しかし、よく見ると多くの古いお家はチープな暖簾が掛けられた“民泊”に変わっています。京都市内全体がこのように変わっていくのでしょうか。

(報告:藤川由美子会員)
(写真:小松香織・藤川由美子・熊谷喜輝)
(広報部:熊谷喜輝)

活動内容
このページの先頭へ戻る

Copyright © MIYAKOGUSA All Rights Reserved.