活動内容

第97回研究発表会報告、岡田 英三郎 会員、菊井 俊彦 会員(18.10. 12)

第97回研究発表会報告、岡田 英三郎 会員、菊井 俊彦 会員(18.10. 12)

◆日 時:平成30年10月12日午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1. 天皇にならなかった天皇―歴代外天皇小考― 岡田 英三郎 会員

      2.「渋谷通を考える」 菊井 俊彦 会員

◆参加人数:29名

 

第1部は、天皇にならなかった天皇―歴代外天皇小考― 岡田 英三郎 会員です。
 天皇に在位していないのに「天皇号」を称される御方(追尊天皇、歴代外天皇)について、その追尊事情に
ついてお話しました。
あわせて天皇在位があやふやだが歴代天皇に列せられている御方についてもお話させて頂きました。

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宮内庁『陵墓要覧』(平成十五年版)によると、現在天皇号を称されている御方は136名です。
123名の歴代天皇(重祚された御方が2名)、北朝天皇5名、追尊天皇8名です。

取り上げた八名の追尊天皇は、飯豊天皇、岡宮天皇、春日宮天皇、崇道天皇、後高倉天皇、後崇光天皇、
陽光院天皇、慶光天皇です。多くは、歴代天皇の父君として追尊されていました。

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また、明治以降に歴代天皇に列せられた、弘文天皇(39代)、淳仁天皇(47代)、仲恭天皇(85代)
、長慶天皇(98代)についても、その経緯について簡単にお話しました。

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次年(2019年)には、天皇交替が行われます。日本歴史のなかでゆれ動いていた天皇制について考える良い
機会ではないでしょうか。(会員 岡田 英三郎)

 


 

第2部は、「渋谷通を考える」 菊井 俊彦 会員です。
 この道は、地誌類に渋谷越・渋谷街道・苦集滅路・久々目路・汁谷・滑谷・瀋谷・馬町通等色々な表記で
現れます。それだけに、この道の変遷を予感させますが、勉強のスタートは『大工頭中井家建築指図集(中
井家所蔵本)』「洛東清水寺惣絵図」の音羽の瀧の少し南に門があり、門の外に「渋谷道」と書かれている
のを発見したことに始まります。これは明らかに「歌の中山」清閑寺への道です。すると五条大路末から渋
谷越に繋がる道は一本ではなかったかもしれません。

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渋谷通の歴史を少し考えてみたいと思います。街道としては平安京成立以降の道だとされていますが、本格
的には、平忠盛が父正盛の墳墓堂(常光院)を取り込む形で本邸泉殿を建設したことに始まります。この当
時、平氏は日宋貿易で得た大量の財物の保管場所を必要としていました。この鳥辺野と呼ばれる広大な空間
地はそのために最適だったのでしょう。さらに、この場所は平氏の本拠地である伊勢・伊賀方面への交通の
要衝でもありました。

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この後、六波羅館は没官領として鎌倉幕府の六波羅探題として機能していきます。南北の探題の位置はよく
分かっていませんが、『六波羅守護次第』の記事に南方が「六条大和大路」とあることから六条大路末の延
長線上と考えられています。源頼朝は鎌倉に幕府を開くとともに東海道を整備していきます。その過程で渋
谷通は南に変更されたのかもしれません。

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山科言継の『言継卿記』に「粟田口路甚悪、仍自清水橋方如例向クヽメチ方、」と記されるように、粟田口の
道はあまり良い道ではなかったようで、天候が悪いと五条橋から渋谷越で山科に抜けているようです。そして
それは「如例」とされています。織田信長が足利義昭と入京したルートもこの道であったようです。義昭はそ
のまま清水寺に入っていますので清閑寺の道が使われたかもしれません。信長は東寺に向かっていますので、
そのまま馬町通を通っていたでしょう。

豊臣秀吉は小田原攻めに向けて東海道を整備します。江戸時代になるとより一層東海道の重要性が増し、京都・
江戸間の主要道に位置付けられて、渋谷通は脇道に押しやられてしまいます。(会員 菊井 俊彦)

 

  (広報部 岸本 幸子)

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