活動内容

第96回研究発表会報告、松野 吉孝 会員、武富 幸治 会員(18.9. 21)

第96回研究発表会報告、松野 吉孝 会員、武富 幸治 会員(18.9. 21)

◆日 時:平成30年9月21日午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1. <上映と説明>「尾上松之助葬儀実況」(大正15年9月16日)  松野 吉孝 会員

      2.明治の工場…疏水の利用「事始め」 武富 幸治 会員

◆参加人数:26名

 

第1部は、「上映と説明 尾上松之助葬儀実況(大正15年9月16日)」 松野 吉孝 会員です。

 今から92年前、大正15年9月16日に執り行われた目玉の松ちゃん・尾上松之助の葬儀について、
当時の京都日々新聞は次のように伝えました。「尾上松之助葬儀式列は十数丁の長さに及び、
供花の数は実に八百余り、会葬者数約三千。・・大将軍の日活撮影所への両側は人垣を造り全く
蟻の這い出る隙間もない。本願寺の上人さんの葬式にだってこんな人出はあるまい。レコード破りだ。」と。


松之助葬儀千本座前
松之助葬儀千本座前

 

今回この記録映画と資料・写真から、この感動を皆様に実感して頂こうと挑戦しました。
1.    映し出された当時の街並みなど
・堀川通が西側に拡張されるまえの堀川・丸太町の交差点から始まります。
・千本中立売の交差点ではチンチン電車が横切って。
・千本一条上がるにあった「千本座」、「大超寺さんの大いちょう」も。
・「千本座」の前はビックリするほど大勢の方が。屋根の上からも。騎馬警官も出動。

2.    葬儀式列
・先頭は「奴行列」。「ヒ~さい、ヒ~さい」の声が聞こえてきそうです。
・松之助・柩の前には、雅楽の方々も。旗手は松之助のお抱え人力車夫さん。
・行列を行く「日蓮法華」の旗は、今も成願寺さんの本堂に。
・贈られた多くの「花輪」などは、一つ一つを人夫さんが運ばれ、長い行列。
・白装束の俳優、女優さん、芸舞妓さんも。しかし女形を務めた俳優さんの姿はなく。
・喪主・子息・房吉さんは当時京都二商(現・市立北野中学)生徒。ご友人一行も。

大正15年全国俳優大見立・中央に名誉台覧尾上松之助
大正15年全国俳優大見立・中央に名誉台覧尾上松之助

3.    日活関西撮影所(大将軍)での「日活社葬」
・広い撮影所の中は、会葬者で満席。残暑厳しい中、扇子・扇子がなびくように。
・横田永之助副社長、池永浩久撮影所長などの弔辞が続き、犬養毅、京都府知事からも。
・阪東妻三郎氏のお焼香姿も。

4.    等持院墓地埋葬
・予め松之助が作っておいたお墓に埋葬され、参列者がお別れされた。(お墓は「非公開」)

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 皆さんから質問をお受けしながら進めさせて頂こうと思っておりましたが、焦ってしまって、
私がひとり喋りまくって、アッという間の80分間でした。申し訳ありません。
                                 (会員 松野 吉孝)

 


 

第2部は、明治の工場…疏水の利用「事始め」 武富 幸治 会員です。

 琵琶湖疏水は明治23年に開通しました。疏水が計画された時には舟運・水車動力・灌漑が主な
目的でしたが、途中で水車から水力発電に変更されたことはよく知られています。
しかし、電気の利用はそう簡単には広まらず、逆に江戸時代からなじみのある水車の方が先に普及
しました。今回は、疏水が開通してからその利用が軌道に乗るまで、工場が発展していく様子を
見ていきたいと思います。

DSC07889

 まず、電力の利用です。明治24年に送電が始まった時の利用者はインクラインの35馬力と時計製造
の1馬力だけでした。25年からは電燈での利用が始まりました。京都電燈は東京・神戸・大阪に次い
で日本で4番目の電燈会社でしたが、他社が石炭による火力発電なのに対して、25年から水力発電に
変更したことにより、電気料金が半額に近くなって普及が進みました。

 繊維工場でも明治25年から電力の利用が始まりましたが、初めは動力ではなく電燈としてでした。
動力としての利用は三相交流による送電が始まる明治29年以降です。新しく創業した工場がまず導入
し、既に蒸気機関で操業していた工場での電力導入は後になりました。

利用目的別電力利用量の推移s

 蹴上発電所は明治28年9月から1年半の間に三相交流の発電機を7基導入し、給電量は当初の10倍以上
になりました。明治40年代には増大する電力需要に合わせて京都電燈が自前の火力・水力発電所を次々
と建設し、蹴上発電所も明治45年の第二疏水開通に伴い第二期建屋を建設し、給電量は飛躍的に増大
しました。

一方、疏水の水車利用は精米から始まりました。水車での精米は鴨川や白川で行われていましたが、
水量が安定せず、足らない分は人力で補っていました。疏水は安定した豊富な水量が得られるだけでなく、
舟運を利用して玄米の持込と白米の運び出しができるため、利用が広がりました。

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精米以外では、大きな力が必要な金属加工が水車に向いているため、利用が進みました。中でも明治初年
から電信・電話・電車の送電線などが大量に必要となり、電線の需要が急激に増えました。その他、
小規模な水車利用は大正時代まで伸び続けました。これは今まで手工業で行っていた作業に近代的な水車が
導入されたためではないかと考えられます。

今では忘れられた水車が、京都の近代化に大きく役立ったことがわかるとともに、現代の電力需要の急激な
伸びに改めて驚かされました。(会員 武富 幸治)

 

(広報部 岸本 幸子)

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