活動内容

第83回 歴史探訪会東部会「 本圀寺と西寺町に眠る秘話」(18.6.12)

第83回 歴史探訪会 東部会 「本圀寺と西寺町に眠る秘話」

日  時 平成30年6月12日(火)13:00~  晴れ
参加人数 55名・うち非会員5名、スタッフ8名
コ ― ス 本圀寺題目碑~北来地蔵菩薩~妙恵会総墓所(松永久秀・早川卓之丞・野本輝久墓)~勝光寺~末慶寺~
     善徳寺~中堂寺~長圓寺~玉樹寺              

当日は梅雨の最中にもかかわらず、カンカン照りでも雨天でもないという、絶好の探訪日よりとなりました。また、広大な境内を持ちながら昭和の中頃に山科へ移転した本圀寺。その史跡と付近の寺院探訪というやや地味な、観光としては忘れられた地域の探訪になり、参加者が少ないかと心配しましたが、大勢の皆様の参加を頂き、ありがとうございました。

最初の集合場所で本圀寺の歴史や変遷等の話がありました。國は惑が中にあり縁起が悪い、国の中の八方に力が及ぶように、とのことで國→圀に変え則天文字を使った。(水戸光圀からもらったとも言われている)

武富部長より開会の挨拶
武富部長より開会の挨拶

東総門跡に残る大きな石碑の下でひげ題目等の説明がありました。日蓮の教えが四方八方に広がるように髭を付けたとも言われています。

東門跡ひげ題目前にて
東門跡ひげ題目前にて
大谷副部長より説明
大谷副部長より説明

松原通りでは天明の大火後二町が大切に祀っていた地蔵菩薩を一箇所にまとめた祠で由来の説明がありました。木像の立像と坐像ですが、火災にあっても連綿と受け継がれてきた貴重なお地蔵様です。参加者の皆様には、堀川通りの自動車騒音で、説明者の声が聞き取り難かったことと思います。お詫びと共に今回の反省でした。

北来地蔵菩薩前にて大谷副部長より説明
北来地蔵菩薩前にて大谷副部長より説明

本圀寺の本山が山科に移転後、残った塔頭寺院が共同で維持されている旧墓地。妙恵会総墓所といいます。400年以上の歴史があります。墓地中央に龕薦堂(がんぜんどう)という建物があり、葬儀(野辺の送り)の最後の儀式が行われた話などがありました。墓石の変遷を確認できる珍しい場所かもしれません。(砂岩から花崗岩への彫刻技術の進化)

龕薦堂にて田村会員より妙恵会墓地の説明
龕薦堂にて田村会員より妙恵会墓地の説明

本圀寺事件、幕末時の特異な事件です。文久3年(1863)8月17日深夜、鳥取藩の過激攘夷派の家臣22名が、塔頭に宿泊していた重臣4人を襲撃し殺害したのです。その翌日、8月18日には堺町御門を警備していた、過激攘夷を称える長州藩を京都から追い出した政変が起こりました。時代の先端を行くとされていた行動が、跳ねっ返りの単なる暴動とされてしまいます。もし半日実行が遅れていたら、18日の政変のニュースも伝わり、無駄な血を流すこともなかったろうと思われます。(歴史にIFは禁物でした)襲われた重臣の一人早川卓之丞の弟の子孫であられる蔦谷会員から仇討も含め詳しい話がありました。身内から墓の前で説明を受けると内容が深く伝わってきます。

蔦谷会員より本圀寺事件の説明
蔦谷会員より本圀寺事件の説明
蔦谷会員ゆかりの早川家のお墓
蔦谷会員ゆかりの早川家のお墓

朝鮮通信使12回のうち7回が本圀寺を宿舎としました。四百人以上の人を宿泊させることのできる多くの塔頭があったためです。初期は拉致された捕虜の返還が目的でした。

多賀会員より朝鮮通信使の説明
多賀会員より朝鮮通信使の説明

松永久秀、野本輝久、この二人がこの墓地を寄進したのですが、数奇な運命を辿ります。松永久秀は主家三好家を滅ぼし、将軍義輝を殺し、東大寺を焼打ちする。織田信長に仕え、一国に相当すると言われる茶釜を、くれ、イヤだ、と抵抗する。結果、平蜘蛛の茶釜を抱いて爆死したというエピソードが残ります。

松永弾正墓前にて福井会員より説明
松永弾正墓前にて福井会員より説明

野本輝久は松永久秀から将軍義輝暗殺の誘いを受けるも拒絶。実行2日前に久秀に殺害されます。殺した人間と殺された人間が十数メートル離れて眠っているのは深い因縁です。
タイトルの秘話、実は悲話でもあるのです。

福井会員より野本輝久の妻伊佐の説明
福井会員より野本輝久の妻伊佐の説明
野本輝久墓
野本輝久墓

洛中法華21ケ寺の一つ勝光寺では、お寺のお坊さんから寺の由緒や本尊等の説明を受けました。特に、カヤ材の一木造りの聖観音菩薩像は平安前期の作と伝えられ、少し腰をひねったような肉感的なお姿、その立派な体格と眼差しには圧倒されました。本堂の右脇隅に参拝者を見守っておられます。また、本堂前の立派な柘榴の木には心が引かれました。

武富部長より日蓮宗二十一本山の説明
武富部長より日蓮宗二十一本山の説明
波ゆり題目
波ゆり題目
勝光寺にて石井直秀上人より説明
勝光寺にて石井直秀上人より説明
聖観音菩薩像
聖観音菩薩像

皆さんは、大津事件、畠山勇子をご存じでしょうか?末慶寺ではその烈女の墓があります。明治24年、ロシア皇太子ニコライが大津市を通行中、警備の津田三蔵が襲った事件です。当時ロシアはすべての面で日本の及ばない大国でした。天皇が直々に常盤ホテル(現、京都ホテルオークラ)にお見舞いに来られるほどでした。これらのことに畠山勇子は深く心を痛め、京都府庁正門前にて自刃して果てます。無縁仏としてこの寺に埋葬されます。その後、烈女勇子として喧伝されるようになります。(これも悲話です)

「列女畠山勇子」墓前にて大谷副部長より説明
「列女畠山勇子」墓前にて大谷副部長より説明
畠山勇子辞世の歌
畠山勇子辞世の歌

大審院長児島惟謙はこの事件を審理します。死刑を政府から要望されるも拒否、「正義を権力から護れ」として法にのっとった判決をします。このことが法治国家として世界に認められる要因になります。

末慶寺門前にて植山会員より大津事件の説明
末慶寺門前にて植山会員より大津事件の説明

善徳寺は、化粧紅を塗ったと云われる赤壁で、美人祈願の仏様として江戸時代には大層賑わったようです。現在も全景を眺めると赤壁が美しく、駐車中の車も素敵な赤色でセンスの良い風景でした。

善徳寺にて丹羽副部長より説明
善徳寺にて丹羽副部長より説明

長圓寺の境内では、長圓寺の沿革、洛陽三十三観音、御朱印の説明や、隣の中堂寺の由緒、西寺町の話、掴まえ所のありそうでない話にさもありなん、と納得する自分でした。本堂と大悲殿に上げて頂き、阿弥陀如来や聖観音菩薩像等を参拝しました。参加者にはありがたいことに、長圓寺さんからお茶と飴の接待を頂き、疲れも取れ、ホットする一時でした。

長圓寺観音堂
長圓寺観音堂
長圓寺本堂前にて丹羽副部長より長圓寺の説明
長圓寺本堂前にて丹羽副部長より長圓寺の説明
同・植山会員より中堂寺の説明
同・植山会員より中堂寺の説明
同・広瀬会員より西寺町の説明
同・広瀬会員より西寺町の説明

皆さんは賀川玄悦をご存じでしようか?世界に先駆けて妊娠中は胎児が頭を下にしていると主張した人です。江戸期に多数の産科施術を考案し、近代的な産論を著し、大きな業績をあげました。玉樹寺には、玄悦の墓と共に、その業績をたたえた水原秋桜子の「産論の月光雲をはらいけり」の句碑がありました。

玉樹寺にて広瀬会員より賀川玄悦(子玄)の説明
玉樹寺にて広瀬会員より賀川玄悦(子玄)の説明
賀川子玄のお墓
賀川子玄のお墓
「日本産科学のみなもと」の碑
「日本産科学のみなもと」の碑

夏至近くとなり、日が長く予定よりやや終了が遅くなりましたが、最後までお付き合い有難うございました。
                      (報告:東部会副部長 丹羽氏昭)

(写真:熊谷喜輝)
(広報部;熊谷喜輝)

 

 

活動内容
このページの先頭へ戻る

Copyright © MIYAKOGUSA All Rights Reserved.