活動内容

第78回都草歴史探訪会(伏見深草部会)~豊臣秀吉の夢、大仏と神廟 その破却跡を巡る~(17.10.12)

第78回都草歴史探訪会(伏見深草部会)~豊臣秀吉の夢、大仏と神廟 その破却跡を巡る~(17.10.12)

◆日  時:平成29年10月12日(木)12時30分受付 13時出発

◆集合場所:豊国神社境内

◆参加人数:29名(会員26名、非会員3名)

◆参 加 費:会員500円 非会員1000円 

◆コ - ス: 豊国神社→耳塚→石垣→方広寺鐘楼→大仏殿址→妙法院→新日吉神宮

→豊国廟参道(太閤坦)・解散

 

今回のコースは本年4月に実施しましたが、途中で大雨が降り、不本意な結果になったため、再度実施することにしました。スタートの豊国神社から曇り空で、また雨が降るかと心配しましたが、ゴールの太閤坦まで何とか天気はもってくれてリベンジすることができました。

 

始めに森幸弘部会長から、豊国神社を中心としたこの地域は歴史上重要な変革地であり、テーマである秀吉の夢が徳川家の策略によって破却の跡を巡るコースであることの説明がありました。豊国神社や豊国廟が破却され、方広寺は縮小されて移転した上、寺地は妙法院に移りました。さらに同院は豊国廟の参道を封鎖するため新日吉神社を建てるなど、徳川家の徹底した策略によって秀吉の再生への夢が消えてしまった経緯について述べられました。

今回のテーマについて説明する森幸弘部長
今回のテーマについて説明する森幸弘部会長

 続いて林寛治監事が豊国神社の盛衰について詳しく解説されました。秀吉自らが八幡大菩薩となって再生することを望んでいましたが、死後、油が峯に密かに埋葬された後、朝廷より豊国大明神の神号を賜り、豊国神社が創建されました。しかし、大坂夏の陣により豊臣家が滅亡後、家康によって豊国神社、豊国廟の破却は進み、その神号も剥奪され、仏法によって供養されることになりました。以降も続いた徳川家による豊国神社等の破却から、明治13年の同神社の社殿の復興及び同31年の豊国廟の再興までの経過について詳細に述べられました。

 

豊国神社の盛衰等を説明する林寛治監事
豊国神社の盛衰等を説明する林寛治監事

 

元伏見城の遺構と伝わる唐門では、正面に掛けられている「豊国大明神」の勅額は後陽成天皇の宸筆であることや、左甚五郎作と伝えられる欄間に彫られた見事な鶴の彫刻には飛び立たないように目が入れられていないこと、さらに、唐門横の石灯籠の一つが大野修理大夫治長の寄進であるとの説明がありました。

唐門の鶴の彫刻等を説明す林寛治監事
唐門の鶴の彫刻等を説明す林寛治監事

 

大野修理大夫治長寄進の石燈籠
大野修理大夫治長寄進の石燈籠

 

境内の東南隅(宝物館の奥)に建っている五輪塔は、地名の馬町に因んで馬塚と呼ばれ、秀吉の供養のため参拝者が訪れていたと伝えられています。その石碑には、「国泰院俊山雲竜大居士 元和元年八月十八日敬白」の銘が刻まれています。

馬塚について説明する林寛治監事
馬塚について説明する林寛治監事

 

次の耳塚では、時折お参りされる方がおられる中で、森幸弘部会長から耳塚の謂れとともに、秀吉の膨大な兵力による文禄、慶長の役が遺した負の遺産であること、後に、伏見の勇山といわれた小畑岩次郎の発起によって塚の周囲の石柵が整備されたことなど、気遣った解説がされました。

耳塚について説明する森幸広部長
耳塚について説明する森幸広部長

 方広寺に入る前に、林寛治監事から方広寺大仏殿の石垣であった蒲生氏郷寄進の巨大な「蒲生石」と、隣にある「泣き石」の説明がありました。泣き石は、前田家より奉納された(寄進させられた?)もので、運搬にかかる巨額な費用に泣かされたためとか、石に涙の跡らしいものがあり、石が加賀に帰りたいと泣いたためともいわれていて、方広寺の七不思議のひとつです。

大仏殿の石垣(蒲生石等)について説明する林寛治監事
大仏殿の石垣(蒲生石等)について説明する林寛治監事
蒲生石(右)と泣き石(左、白い筋が入っている)
蒲生石(右)と泣き石(左、白い筋が入っている)

 

方広寺の鐘楼前で林寛治監事が、鐘銘の「国家安康 君臣豊楽」により豊臣家滅亡の糸口になった、いわゆる「鐘銘事件」について解説されました。梵鐘の内側に見える白い雲のようなものは淀君の幽霊が浮かんでいるといわれています。これも方広寺の七不思議です。この鐘は、かつて100円で撞くことができ、人気があったため100円ずつ値上げされて500円になっても一日中鳴りやむことがなかったそうです。そのため周辺住民から苦情が出たので中止され、除夜の鐘として大晦日のみ撞かれるようになりました。

 

方広寺の鐘銘事件について説明する林寛治監事
方広寺の鐘銘事件について説明する林寛治監事

 

豊国神社の東側に移動し、大仏殿基壇跡において、大西秀樹会員が大仏の不運の歴史が説明されました。大仏殿の高さが16丈(約48m)あるのに対して、初代大仏の高さは19mであったとされる通説については、諸説があると紹介されました。


大仏殿基壇跡にて大仏の造立等について説明する大西秀樹会員
大仏殿基壇跡にて大仏の造立等について説明する大西秀樹会員

 妙法院門跡では、安田富枝会員から秀吉が執り行った千僧供養に出仕する僧の食事が準備された庫裏(国宝)のほか、七卿落ち(8月18日の政変)についても説明されました。

妙法院について説明する安田富枝会員
妙法院の庫裡等について説明する安田富枝会員

 

新日吉神宮では、林寛治監事から同神社の沿革とともに、江戸時代、禁じられた秀吉の祭祀を密かに守り続けた樹下社(現豊国社)についても述べられました。

新日吉神宮の沿革について説明する林寛治監事
新日吉神宮の沿革について説明する林寛治監事

 

新日吉神宮の駒猿
新日吉神宮の駒猿
新日吉神宮ご神木のしいの木(すだじい)
新日吉神宮ご神木のしいの木(すだじい)

 

最後の太閤坦では、武富幸治会員から、秀頼の子である国松と京極龍子の墓石について、二人の関係と誓願寺の移転経緯のほか、醍醐の花見の際に起こったとされる龍子(松の丸殿)と茶々(淀殿)との「盃争い」についても熱く語られました。

秀頼の子国松と京極龍子の前で二人の関係について説明する武富会員
秀頼の子国松と京極龍子の前で二人の関係について説明する武富幸治会員

 

世公子(国松)と寿芳夫人(京極龍子)の遷墓碑
世公子(国松)と寿芳夫人(京極龍子)の遷墓碑
何とか天気がもち、ほっとした表情の森幸弘部会長
何とか天気がもち、ほっとした表情の森幸弘部会長

 

参加された皆様は、歴史に翻弄された豊国神社をはじめ、方広寺などの太閤さんの夢の跡と徳川家に破却されたスポットを巡られて、新しい発見があったと同時に複雑な心境になられたことと思います。

 

(報告:伏見深草部会・奥本徹夫)

(写真:奥本徹夫、須田信夫)

(広報部:須田信夫)

 

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