活動内容

第73回研究発表会報告、堂園 光子 会員・芦田 喜雄 理事(15.07.02)

第73回研究発表会報告、堂園 光子 会員・芦田 喜雄 理事(15.07.02)

◆日 時:平成27年7月2日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「古事記はおもしろいⅤ」 堂園 光子会員
      2.休み山鷹山を考察する2026年7月200年ぶりの後祭での加列をめざして 芦田 喜雄理事
◆参加人数:33名
◆参加費 :300円 一般参加費 :500円

第1部は 堂園 光子会員より「古事記はおもしろいⅤ」です。前回で神話の上巻が終わり、今回から日本の歴史が分かる中巻で神武天皇の東征からです。
前回の最終に登場したウガヤフキアへズとタマヨリヒメの間に生まれた4人の子供のうち、4番目のカムヤマトイワレヒコが神武天皇になります。スタートはこのカムヤマトイワレヒコと長男のイツセと高千穂に宮を創り「どこに行けば天の下を治めることができるだろうか。」と相談をし、そして東に行く事になった。これが神武天皇の東征です。この時代の日本国土の一番北は新潟県の佐渡ヶ島でした。

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高千穂から宇沙(大分県宇佐市)次に筑紫(福岡県)の岡田宮、安芸の国(広島県)、吉備(岡山県)の高嶋宮、明石海峡、大阪から南へ紀伊半島を廻って紀伊の国の男之水門(大阪府泉南市)へとカムヤマトイワレヒコと長男のイツセが支配していきました。古代にはヒコヒメ制がありました。これは女性には宗教的な神秘的な力があり、武力を持つ男性と女性が一緒になって始めて支配できることです。例えば卑弥呼の宗教的な力と弟の政治力で支配しています。天皇家も同じです。
またカムヤマトイワレヒコたちに名前を聞かれた時に答えたり、響応(きょうおう)しても従属したことになります。古事記では天皇家に逆らう者は賤しい者という。

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カムヤマトイワレヒコ達は天照大御神の子孫なので太陽に向かって戦っていたからイツセが怪我をした。なので、太陽を背中にして戦い直そうと大阪から南へ紀伊半島を廻って紀伊の国の男之水門(大阪府泉南市)に至ったがイツセが賤しい者と戦った矢によって死んでしまった。
次にカムヤマトイワレヒコと兵たちは和歌山の熊野村へ。ここでは皆気を失ったのを高倉下が振りかざしたを振り剣に助けてもらった。その剣は奈良県天理市の石上神社にあります。祭神が剣です。
次には八咫烏の先導で吉野川、奈良県の宇陀と進み、最終目的は奈良県橿原市の橿原神宮です。
八咫烏と云えば日本サッカーのシンボルマークですが今日の研究発表の日にサッカーの女子ワールドカップカナダ大会でイングランドに勝ち決勝に進んだめでたい日です。
八咫烏は3本足ですが古事記にも日本書紀にも3本足とは書いていません。中国の古代の話の中で太陽の中に3本足の赤い烏が居ると言われています。

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どんどん支配していく中で神武天皇に反抗する原住民を土雲と呼んでいます。原住民は元々手足が長かったのでは、と言われています。その土雲も一斉に討ち全滅。今度は太陽を背にして戦ったので勝つことができ、樫原に宮を創りカムヤマトイワレヒコは初代神武天皇になりました。
神武天皇はオホモノヌシノ神の娘のイスケヨリヒメを皇后にします。そして生まれた子が二代目、綏靖天皇です。しかし二代目から九代目までは系譜のみで事績がないので欠史八代と呼んでいます。
十代の崇神天皇と初代天皇は神武天皇と同一人物であるとする説もあります。両天皇に「初国知らしし・・」と同じ 諡号があるためです。崇神天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が死に絶えそうになった。神のお告げによりオホモノヌシを三輪山に祀り国は疫病の害から免れました。
次が十一代垂仁天皇です。天皇の皇后サホヒメは兄のサホヒコを愛していたため生まれた子供を残し て死んでいきましたが、垂仁天皇がサホヒメに注いだ愛情は古事記の中で最も強く表現されています。 
                                    (記事 岸本 幸子)


 
第2部は  休み山「鷹山」を考察する 芦田 喜雄理事
 2026年に200年ぶりの復興を目指す鷹山。
現在、布袋山とともに休み山である鷹山が、20年後の後祭巡行の加列を目標に動き始めました。
昭和になって、菊水鉾(昭和28年)、綾傘鉾(昭和54年)、蟷螂山(昭和56年)、四条傘鉾(昭和63年)の4基が復興し、それから昨年とうとう大船鉾が150年ぶりの復興を果たし、大いに注目を集めました。

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それでも、山鉾の完全な復興には早くても20年はかかるといわれており、鷹山の復興には今後多くの
難題を乗り越える必要があります。
復興にかかる2億5千万円の費用の捻出も大きな課題の一つです。
ところで鷹山とはどんな山だったのでしょうか。

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寛永年間に描かれた「祇園祭礼図屏風」では、3体の人形(鷹匠・犬飼・樽負)が乗る大きな曳き山で
あったことが分かります。
山の主人公の鷹匠は平安時代の鷹狩りの名手、在原時平がモデルといわれています。
鷹山を出す町は三条町と室町の間といわれ、現在の三条通の新町室町間にありました。
巡行は籤取らずで後祭の最後、殿(しんがり)の直前を巡行していた記録が残っています。

鷹山ご神体

鷹山復興に必要な資料はあまりありませんが、秋山國三氏によって同志社大学に寄託された『衣棚町文書』には
鷹山に関する詳細な記載が見られます。
また西村吉右衛門家に伝わる日記にも鷹山に関する記事もあり、今後の解明が楽しみです。

                                        (記事 松枝 しげ美)
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