活動内容

第63回研究発表会・報告 島添 道文会員、小松 香織理事(14.8.28)

第63回研究発表会(14.8.28)

◆日 時:平成26年8月28日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 東・西本願寺分立の歴史沿革と今に残る違いあれこれ 島添 道文会員
     2.大船鉾復活そして復興の巡行までを追う 小松 香織理事
◆参加人数:70名
◆参加費 :300円   一般参加費 :500円
 
第1部は東・西本願寺の分立の歴史沿革と今に残る違いあれこれ
ご実家が東本願寺の末寺である島添会員ならではの今回のテーマでした。
東・西本願寺の分立の原因を時代背景とともにお話下さるとともに、真宗10派や東・西本願寺の違いなども交え、表などを使って分かり易く解説して頂きました。
 

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 真宗には宗祖親鸞聖人の血脈である本願寺派(本山は西本願寺)と大谷派(本山は東本願寺)、及び親鸞以降に本願寺から門弟などが分かれて創った法脈といわれる仏光寺派や興正寺派ほか6派があります。これらを合わせて「真宗10派」と称しています。
その中でも、本願寺派と大谷派はその規模や門信徒の数がずば抜けて大きい宗派です。
今回は激動する戦国末期から江戸時代初期に成立した両派についてお話して頂きました。
 
 親鸞以降衰退を続けていた本願寺を、中興の祖と称される第8世蓮如が数々の試練の乗り越え教団の拡大を図ったことはよく知られています。第11世顕如の時代には蓮如が今の大阪城界隈に築いた石山御坊を拡充し有名大名を凌ぐ財力・兵力を有する一大勢力となる石山本願寺を築きました。
時は戦国時代。天下統一を目指す織田信長は、一向一揆の本拠地であり、且つ西国進出への要衝である石山本願寺を狙い、約10年にもわたる戦争「石山合戦」が始まります。
 

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 しかし、天下統一を急ぐ信長は、朝廷に本願寺との仲裁を要請。たとえ石山本願寺を攻略しても、全国に広がる本願寺勢力と対立するのは得策ではなかったと判断したからだと考えられます。
本願寺も血脈・法脈の維持、賠償金の不要などが約束されたこともあり、顕如とまだ幼い3男の准如を始めとする講和に同調する勢力(穏健派)はこれを受け入れ、紀州鷺宮へ退隠しましたが、長男教如を中心とした徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)が石山本願寺に居残り信長と抗戦しました(これを「大坂拘様」と称します)。
本能寺の変による信長の自害以降、一度は顕如から義絶されていた教如も許され、本願寺を継承することになりますが、教如の強行路線は後に秀吉の怒りを買い、准如が本願寺12世を継承することになります。
さらに、秀吉の死後、豊臣と徳川の対立を反映するかのように本願寺が二分するまでの過程を時代背景とともに詳しくお話下さいました。
「時の権力者の力によって分裂させられ、本願寺の弱体化を余儀なくされた」との通説もありますが、2004年には本願寺で新しい教如の書状も見つかり、「元々分裂状態にあった本願寺教団を、家康が徳川寄りである教如要請(本願寺からの独立)を受け、これを追認した」と考えることが出来ることも解説下さいました。
 

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 教如側が徳川寄りに活躍したことで、江戸幕府が長く続く中、本願寺が衰退せず現在までこうして生き残ってこられたのではないかと考えると、非常に興味深いところです。
このような歴史を経て成立した東本願寺と西本願寺。勢力争いの経緯によるものかどうか定かではありませんが、現在両派は教義が同じでも、ソフト面やハード面で多くの違いがあります。36の違いがあるとも云われています。
例えば、法主の呼称名(門首VS門主)、親鸞廟の名称(大谷祖廟VS大谷本廟)、御念仏の発音(ナムアミダブツVSナモアミダブツ)のほか、伽藍の配置、本堂外陣の畳の敷き方などなど・・・。
最後に正信偈行譜を東と西のそれぞれのお称えの仕方を披露下さり、坂本理事長と岩澤会員のすばらしいお称えも聞かせて頂きました。(記事 松枝 しげ美)
 

 2014年の大船鉾のちまき授与のボランティアには多くの会員並びに学生さんのご協力をいただきありがとうございました。
 第2部は 大船鉾ボランティア総責任者の小松香織理事より大船鉾巡行150年ぶり、ハレの日を向かえることができた興奮を報告していただきました。
小松さんは20年前に関西に転勤して来たときから祇園祭が大好きで宵山に通い詰めていらっしゃり、そして、ちまき授与のボランティアがあることを知った時に娘さんと一緒に参加したのが最初でした。
以来今年で7年目の年になりました。多くの祇園祭の写真の中からセレクトしてもまだ500枚ある写真を何とか絞り込み、いつもの軽快トークでスタートです。

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 まずは、大船鉾関連年表から大船鉾は1422年には巡行に参加していたようです。1864年の蛤御門の変で本体焼失。懸装品はのこる。・・・時はすぎ1997年囃子方復活、2007年懸装品等121点が京都市指定文化財となり居祭復活。2009年「京都祇園祭の山鉾巡行」がユネスコ無形文化遺産として登録される。2012、2013年唐櫃巡行、2014年大船鉾復興。
 
 大船鉾の今年は5月の上旬から久御山で試し曳きの練習、音頭取りの練習、辻回しの練習。7月にはちまきの袋入れ、ボランティア説明会、切符入りの儀の後は取材が多数、17日の船鉾の先祭り巡行が終わり次第、大船鉾の鉾立が開始。18日鉾の縄絡みが綺麗。20日はお披露目会、清祓の儀、曳初め&取材。
21日より宵山ボランティア参加。大勢の人が詰めかける。23日の宵山まで延べ150人のボランティアの協力がありました。ありがとうございます。
 

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 24日午前7時より巡行日の準備。御池通から市役所前のくじ改めを通過し河原町で辻回し、四条河原で辻回し、そして鉾町に戻りすぐ解体。そして8月3日には復帰祝賀会へも招待されました。
そして2009年からの大船鉾ボランティア活動の風景も懐かしく拝見することもできました。
 
 画像での説明の後、大船鉾の囃子方として巡行された松村 成昭会員にも参加していただき、実際に大変だったことや感動されたことなどをお伺いいたしました。
 
 松村さんは坂本理事長と同じ会社に勤務されていました。松村さんは太子山町に27歳までいらっしゃりまして、祇園祭がとても好きだったようです。会社員時代に篠笛 (しのぶえ)を習われた経験があったことが、大船鉾の囃子方になるきっかけになりました。そして現在は 四条町大船鉾保存会監事をされています。
 

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 初巡行の感想は緊張をしたものの鉾の上から見渡す景色は素晴らしく、気持ちよく、皆さんから声を掛けられ良い経験ができたようです。
今回の都草のボランティアは57名、平安女学院に方は53名、華頂短期大学54名で総勢164名にお世話になりました。その方々のお世話で鉾に上がっていただいた人数は5604名でした。これ以外にも招待客他にも上がっていただきました。期間中は本当に忙しい時間を過ごされましたので、祇園祭が終わった現在は家でゆっくりしていらっしゃるようです。
大成功に終わった今回の後祭の宵山、山鉾巡行。ありがとうございました。(記事 岸本 幸子)

 

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