活動内容

第62回研究発表会・報告 岡田英三郎会員、芦田喜雄理事 (14.7.10)

 第62回研究発表会(14.7.10)

◆日 時:平成26年7月10日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「六地蔵廻り 再考-その起源と歴史-」岡田英三郎会員
      2.「変容する祇園祭」芦田喜雄理事
◆参加人数:44名
◆参加費 :300円   一般参加費 :500円
 
 第1部は5回目の発表になる岡田英三郎会員より「六地蔵廻り 再考 その起源と歴史」です。
研究の動機は国指定天然記念物生物の群生する深泥池の近くに住まいしていることに始まります。みぞろいけ自然観察会に参加し毎月発行する『うきしま通信』に歴史や民族について書いています。深泥池は鞍馬街道の入り口に位置し、深泥池地区には地蔵堂があり地蔵尊が祀られています。深泥池地蔵に興味をもって資料調査をしたところ六地蔵廻りについて多く記載されていることが分かりました。

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基本的な資料は『源平盛衰記』と『山城州宇治群六地蔵菩薩縁起』に集約されていました。『源平盛衰記』には西光卒塔婆の記載があり、西光法師が地蔵菩薩像を安置したという七道の辻の現地踏査を含めて、その場所を考察。七道ノ辻の道を道路と解釈したのは『山城名勝志』が最初のようです。
四宮河原ー大津路、木幡ノ里ー宇治路、造道ー摂津路、西七条ー丹波路、蓮台野ー長坂路、美曽呂ー鞍馬路、西坂本ー龍華超と対応させています。
すなわち七道ノ辻は地理的に京の内外を区別する口と考えられます。また葬送地があった可能性があり生死の境界の地と理解しました。平安時代末の絵巻『餓鬼草紙』には捨てられた死人の中に塚があり、卒塔婆が建てられている様子が描かれています。
私は七道の辻を地理的な京城の境界(口)、生死の境界である葬送の地、宗教的空間への入り口などと提示しますが、当時の人々はこれらの概念をトータルとして観念化していたというのが現実かもしれません。

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また資料の「或る人の云いけるは・・・」の記述より『源平盛衰記』は地蔵を伝聞記事として書かれています。語りものであった『平家物語』や『今昔物語集』などに、地蔵廻りの記事がないことより、地蔵廻りというような風習は無かったあるいは一般化していなかったのではないかと推測します。
現在の地蔵めぐりの基本的な資料は『六地蔵縁起』です。『六地蔵縁起』で示された地蔵尊と現在の地蔵尊を対比すると四の宮河原=山科地蔵(徳林庵)、六地蔵の里=伏見地蔵(大善寺)、上鳥羽=鳥羽地蔵(淨禅寺)、御菩薩池=鞍馬口地蔵(上善寺)、桂の里=桂地蔵(地蔵寺)、常盤院=常盤地蔵(源光寺)になります。

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 平安時代末期から江戸時代の初めまでの約450年間の中世の六地蔵廻りは洛中か京の直ぐ近くにあります。中世の文献資料から六地蔵廻りという信仰形態が成立していた可能性が考えられますが、人によってその参詣先は違っているようです。このことから六地蔵廻りを個人的な習俗かと考えています。
最初の疑問点の六地蔵信仰とはなになのか、の回答を与えてくれるものはありませんでした。六地蔵とは、地蔵菩薩がさまざまなシーン(六道)で、登場していることをいっているのかと思います。現代の京都の六地蔵廻りは六地蔵信仰でお参りしているのではなく、六ヶ所の地蔵堂をお参りしているのだと判断しました。
“六”という数字は仏教では一つの重要なキワードですが、“六地蔵尊”と“六ヶ所の地蔵堂”を混乱してしまったようです。(記事 岸本 幸子)
 
 

 
 第2部は 祇園祭りといえば、芦田理事。3年前からずっとこの時期、芦田理事には「祇園祭のあれやこれや」をお話頂いています。今年は、「前・後祭の49年ぶりの分離巡行」と「大船鉾の150年ぶりの復活」の2大トピックスを中心に、今年の見所とその意義を纏めていただきました。
まず、去年まで行なわれていた合同巡行は何をもたらしたかを考えてみると、次のようなことが挙げられます。
1. 観光事業としての増収を図る。 
2. 整備・交通規制等の合理化。
3. 約一ヶ月にも及ぶ鉾町(氏子)企業の経済的デメリットの軽減。

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以上のことを考えてみると、今年からの分離巡行では、祭全体の事業収入の減少が大きな懸念材料で、各保存会独自の負担増がやはり避けられないと考えられています。
また分離巡行に戻すことで、後祭が従来の風情を取り戻せるかが注目されていますが、今後の社会情勢に観光と信仰をどのように結び付けていくのか・・・も大きな課題となっています。
 
では、前祭と後祭を分離して行なうことにはどんな意義があるのでしょうか。
山鉾巡行が神輿の「先触れ(露払い)」であることはよく知られていることですが、前祭は神幸祭いわゆる神輿迎えのための祭礼であるのに対し、後祭は還幸祭で本来の祇園会をさすということです。この点に関しては前祭と後祭を分離することは大変意味があり、重要な事なのです。
ただ神幸祭・還幸祭の神輿巡行の順路まで考えてみるとどうでしょうか。

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特に還幸祭では、祇園祭のご祭神を乗せた3基の神輿は最後には三条の八坂神社御供社に終結し、3基とも三条通りを通って八坂神社に帰って来ます。そこで後祭(還幸祭)の山鉾巡行もその先触れとして、本来なら巡行経路も御池通りではなく、三条通りを通らねばなりません。
さらに深く調べてみると、祇園祭は毎年行なわれていたのか、神輿渡御と山鉾巡行は一体のものであったのか、祇園会は式日(旧暦6月7日と14日)通り行なわれていたのか・・・・など、疑問はつきません。

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最後に、大船鉾の150年ぶりの復活までの奇跡を、画像を交えて詳しく解説下さいました。船鉾と大船鉾の違いも詳しく見るとたくさんあります。そのいくつかを列挙してみました。
1. 大船鉾は船鉾の1.1倍の大きさ
2. 大船鉾が後祭の凱旋船鉾であるのに対し、船鉾は前祭に出る出陣の船鉾
3. 御神体の一柱神功皇后の衣装が、凱旋船鉾の大船鉾では単狩衣であるのに対し、出陣の船鉾では鎧姿
4. 舳先のお飾りが、大船鉾では大金弊または龍頭(隔年で使い分けていた)であるのに対し、船鉾では空想上の鳥・鷁(げき)であること
5. 屋根の形状
その他上記のような外見上の違いだけでなく、鉾の前に乗って音頭をとる「音頭とり」の扇を扱う所作まで違いがあるのを教えて頂きました。ぜひ本番で注目したいと思っています。(記事 松枝 しげ美)
 
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