活動内容

第50回研究発表会(13.6.21)

 第50回研究発表会(13.6.21)

◆日 時:平成25年6月21日午後1時10分~午後3時50分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「幕末の秘話 飯沼貞吉のその後」中村 正 氏
      2.「第2回 雑学・祇園祭あれやこれや!?」芦田善雄 理事
◆参加人数:38名
◆参加費 :300円   一般参加費 :500円
 
 第1部発表の中村 正様は京都山口県人会会長で又白虎隊の会京都支部長もされております。そして都草の事務所がある京都府庁旧本館の今年の 春の一般公開ではNHK大河ドラマ「八重の桜」の放映にあわせた展示がありましてそちらのご案内を担当されていました。いまだに続く長州と会津の怨念の中、長州の方が会津の白虎隊の会を・・・なぜ?今日は今旬の興味深いお話をしていただきました。
 

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まず、KBSテレビで取り扱われたニュース番組を見せていただきました。飯盛山で自刃した白虎隊士のうち唯一生還した隊士、飯沼貞吉が77才の生涯を終えるまで故郷の会津に帰ることはなかった。幕末何があったのか140年を超えた今京都で解き明かされました。蛤御門の変があった会津対長州の今も残る傷跡を見ながらのお話です。話されている方は飯沼一元さんで飯沼貞吉の直系の孫です。飯沼一元さんは貞吉が何を考え、どう生きたかを究明したいと思い退職後10年の歳月をかけ探られています。歴史的な事実を語るというより血の繋がった先祖がどう考えて過ごしたかを自分で整理をしたい。最大のテーマーは「自刃後の貞吉の生き方」です。敵対関係にあった長州藩士 楢崎頼三との出会い、世話になった母への思いを一元氏の解釈で語られました。
 

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今回の発表会では飯沼一元さんと中村氏が7年前に知り合いこの事実を世の中に出そうと白虎隊の会を立ち上げ活動をしてきた様子を語ってくださいました。この物語には三家が登場します。飯沼家、楢崎家、高見家。しかし証拠の書物が残っていない。高見フサは楢崎家に女中奉公をしていて貞吉は白虎隊の生き残りと言われ切腹騒ぎを起こしたことなど、高見家は現在も口伝で伝えている。
飯沼一元さんに京都府庁旧本館連続講座で会津の幕末歴史秘話をしていただいた。そこで楢崎頼三のひ孫、松葉玲子さんに会い楢崎頼三は飯沼貞吉の母に預かっていることを手紙で知らせたという話を自分のおばあちゃんから聞いている。その話を聞いたことをきっかけに、飯沼貞吉の本の出版を実現する気持ちが固まったこと。
 

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 そして小説『白虎隊士飯沼貞吉の回生』と『あずさ弓の如く』の漫画が完成しました。あずさ弓の如くとは出陣するときに貞吉の襟に縫い込んで送り出した言葉です。貞吉と偶然出会って養育してくれた、長州藩士 楢崎頼三は藩敵で飯沼家の仇でさらに白虎隊の仇でした。楢崎頼三は仇であるが、恩人でもある。この話は、飯沼家にも楢崎家にも書き物として一切残ってはおらず唯一、貞吉を世話した山口県美称市小杉の高見家で代々口伝で伝わってきたことです。この本はこれからの会津と長州の架け橋にして欲しいという思いです。
 
5年後の2018年、維新150年に向けてこらからの会津と長州の心が和む活発な活動を期待しています。ありがとうございました。
 

 
 第2部は芦田善雄 理事から昨年に引き「雑学 祇園祭の第2弾」です。祇園祭巡行も後1カ月をきりました。ちょっと知っていると楽しい豆知識をお話して頂きました。長刀鉾のコンコンチキチンのバックミュージックを聞きながらお祭り気分で歴史の話からです。
 
 現在32基の山鉾ですが昔は58基ありました。1500年頃、鉾は長刀鉾だけで後は山でしたが天明の大火以降からどんどん派手になってきて名称も変化していきました。鴨川には祭りのときのみできる浮橋仮橋があり3基の神輿だけが通るようすが洛中洛外図にもあります。これは神様だけが通る橋で堀川の材木商が自己負担で出していたようです。
 

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また鉾の真木はよく折れたようでいくつかの鉾で合わせて11回も折れています。どこから折れるかというと継ぎ目で1段2段がエノキ・ケヤキで一番高い三段目がしなるように竹が使われています。但しかつては鉄材の刀で鉾頭の重い長刀鉾だけは全て木で出来ていて一番低いです。駒形提灯のロウソクから電灯に変わったのは1919年放下鉾が最初で現在は毎年漏電しないように電線の点検が行われています。

江戸時代始めまでは女性も鉾に上っていたのに問題事があって上れなくなった。しかし昭和24年に女人禁制を函谷鉾が解禁したのを皮切りに女性も上れるようになりましたが、現在も長刀鉾・北観音山・放下鉾はのれません。

長刀鉾のお稚児さんも昔は50人程の町内の当番で順番に参加していました。長刀鉾の最初の稚児は享保4年(1719)に浜田検校の息子の亀の助との記録が残っています。現在は長刀鉾保存会の理事会で決定されています。稚児は長刀鉾と養子縁組するため町より100万円の結納金がでます。がお披露目料やお付き合いのお着物などの支度で数千万掛かってしまうようです!
長刀鉾の浴衣は毎年新しくなっています。2年毎に新調するところもあり各町内で様々です。明治12年にはコレラが流行り夏の祇園祭が11月に変更された年もありました。
 

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 つぎは鉾建てです。鉾建てに使われた大量のわらの紐は使用後は九条ねぎのわら床に使われます。鉾の車輪は150年で3回交換しています。1輪500万円しますので4輪で2000万掛かります。長刀鉾がいつも先頭なのは四条通りの一番先頭にあるので後の山鉾が進めないからです。山鉾の重さで一番重いのは月鉾で11.88トン、最軽量は岩戸山の8.25トンです。傘鉾は360㎏しかありません。懸想品は何枚も持っていてつねぎとよそ行きがあり巡行のときはよそ行きにかえます。船鉾や占出山の神功皇后には巡行当日に腹帯を50枚巻き、翌日に希望者に授与されています。
 

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 次に山鉾巡行で囃子方の一番上手な方は先頭(向かって右端)にのっていてハナと呼び真ん中が初心者です。同じように聞こえる囃子の演奏も各町内30~40曲は持っていてシュチュエーションによって調子がかわります。御旅所までは渡り囃子で超ゆっくりの囃子で御旅所を超えてから戻り囃子で早くなります。鐘と太鼓は町内の人がしますが笛難しいのでは請負でされています。太鼓が指揮者で一番に音出しをします。なので「打ち合わせ」は太鼓が語源になってします。
粽が鉾町で販売されたのは昭和22年からです。北観音山は非売品なので売っていません。1回に使われるのは20万本です。そのうち半分が販売されて後は関係者に配ります。粽投げが禁止になったのは昭和58年からです。2度目の事故が原因で中止になりました。一番高価な粽は蟷螂山で2000円、一番安いのは 郭巨山の500円です。

鉾のドライバーは誰かというと鉾の前に居て音頭取りを指図している人です。巡行の時にはドライバーを探してみるのも面白いです。屋根にのる人を鳥と呼びます。祭神の上に上るので人であってはいけないのです。鉾の中から芯柱から屋根にはい上りハシゴを架けたりはしません。等々・・・参考文献でおもしろかったのは松田元氏の『祇園祭細見』でした。本日予定していた行事については次回7月4日につづきます・・・
 
(事務局 岸本幸子)
 
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