活動内容

第42回研究発表会(12.8.25)

 第42回研究発表会(12.8.25)

◆日 時:平成24年8月25日午後1時15分~午後4時
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.『神道と神社入門(其の一)』都草会員 福井大筰
      2.『天皇と日本の歴史「争いの歴史」』理事 今井敏昭
◆参加人数:56名
◆参加費 :300円   一般参加費 :500円
 
 第1部の研究発表会は福井大筰さんの「神道と神社入門」です。最初に皆さんに信仰される宗教は何ですか?の質問からです。皆さん無宗教の方が多いようです。先祖は仏教ですがよく分らないし、神社にもお参りしますが神道でもない。そんな私達は無宗教ではなく生活習慣の中に宗教が入り込んでいるようです。いろんな祭りや行事に参加する日本人は、様々な宗教を包含し日本流に溶け込ました八百万の日本教です。では神道とは何か?神社本庁教学研究所のわかりやすい解説によると、神道は自然の中に神々を感じた信仰です。
 

2479-DSC09977.jpg

 
シンプルですが制約がなく奥が深く、日本人のアイデンティティは神道に存在します。宗教は大きく分けると民族宗教と世界宗教に分けられます。私達は民族宗教で、特徴は自然発生的に成立した教祖のいない宗教で共同体が優先されます。世界宗教は反対で個人の救済を対象とし教祖・教義・経典を持ちます。これを見ると神道は日本民族の宗教で生活そのものです。神道の語源は中国から借用した漢語です。「日本書紀」で「神道」の語が見られました。神道史は6世紀までの原始神道時代・明治維新までの神仏習合時代・近代の神仏分離時代と3区分されます。古代の原始神道時代は自然崇拝で無意識な習慣から身についた生活の道から発生してきたようです。
 

2480-DSC09984.jpg

 
 神仏習合時代に神道が日本人の宗教と認識されるようになりました。八幡大菩薩が神仏習合の先駆となりました。神道と仏教が一体であるという事を説明する、本地垂迹説が考えられました。神と仏は水と波の関係で、平安初期には神像も出現しました。明治になると政府は新しい国には新しい宗教が必要だということから神道の国教化を図り、神道が国の宗教として強制された「国家神道」になりました。天皇家からは仏教色が一掃され、皇族には宗教の自由が許されませんでした。神道の神の特徴としては穢れを極端に嫌います。神体は神ではなく拝む対象となるもので、また心霊は見えないものです。神に人の力を超えたパワーを貸して欲しいと思うのが日本人の一般的な考え方です。神道の死後は穢れを持ちます。子孫が33年から50年、祀ることで浄化され穢れが取れます。最終的には祖先神になり子孫や家を守ります。神道は生きている世界が正常な世界で死後の世界は汚れているという考えです。
 

2481-DSC09989.jpg

 
 そして神社の中の鳥居とは何か?それは神が君臨する神域と人間が住む俗界を区画する結界としてあり、中国東北地方やブータンからインドにまで広範囲に分布しています。日本の鳥居とよく似た海外から入ってきた外来説と自然発生的な在来説があります。922年の「和泉国大島神社注流記帳」に鳥居についての記述があるのが最初です。鳥は神霊として古代より語られ神が降り立つ依り代の柱に鳥が降り立ったと考えられます。昭和20年8月9日に長崎に落ちた原子爆弾でも倒れずに残った鳥居や広島の原爆を逃れた鳥居を見ると神の霊力を感じます。天皇陵に鳥居が立てられているのには違和感がありますが、天皇陵を神聖な場所として捉え外敵からの侵入を遮断して聖域化し、その象徴として鳥居を立てました。
 
 鳥居の原型とも考えられるアカ族の精霊の門や海底にある舘山市の海底神社の鳥居など、全国の珍鳥居も一挙に見せて頂きとても参考になりました。ありがとうございます。
 

 
 第2部の今井理事の発表は今年の1月に「天皇と日本の歴史-争いの歴史」について弥生時代から鎌倉・南北朝あたりで時間切れになりましたのでそのつづきの発表です。発表資料には160の戦いがありそれを見て思うことは「腹が減った時に戦争がはじまった」が結論です。今回は「対朝鮮との領土争い」があった室町時代からの話になります。現在竹島の問題もありタイムリーな時間帯になります。歴史を見ると弥生時代の前50年に「倭人の海賊的集団」の項目で韓国の海岸線に日本人が行った事が記録されています。その後391年・602年・663年・761年・779年には日本から朝鮮に出向いていました。そして1019年は朝鮮から対馬・壱岐・筑前に来ています。1274年・1281年に元・高麗が日本に来ました。1354年に倭寇が高麗を侵し義満はこの倭寇を取り締まりました。1410年に義持は朝鮮貿易をしましたが上手く行かず1419年には朝鮮が対馬に来ました。
 

2482-DSC00001.jpg

 
1510年朝鮮との貿易の為に釜山に居留していた日本人が制限貿易の朝鮮に反乱を起こす。1592年秀吉の朝鮮征伐失敗後、1873年「征韓論」では西郷隆盛が明治政府の提出した国書を韓国が、受け取らなかったことの打開を計り出兵主張。1910年の「日韓併合」で竹島が出てきます。日韓併合のどさくさに紛れて日本領土として宣言された竹島。弥生時代からの戦いがありどちらとも分らない竹島を政府は日本の領土とし、韓国は日韓併合の象徴である竹島問題に抗議をしています。尖閣諸島については1609年「琉球侵攻」では島津が琉球に攻撃し薩摩藩が支配を行うようになり、明治28年に正式に日本領土として沖縄の編入を行う。第二次世界大戦でアメリカの占領地となりましたが昭和48年に沖縄返還されました。沖縄の歴史はわかりやすいが尖閣は沖縄とは遠く離れ台湾に非常に近いです。
 

2483-DSC00002.jpg

 
 北方領土については1457年に函館でアイヌが蜂起しています。1669年には日高で1789年には根室でアイヌが日本人に対して抵抗を起こしています。1802年に函館に奉行を置いて蝦夷地の内国化を始めました。元々北方領土は日本とロシアとの間で分からない関係があり、1785年最上徳内が千島や樺太に探検し、1798年近藤重蔵がエトロフ島は日本の領土であると木のしるしを立てたことを日本の証拠物件として掲げました。その後日露戦争・サンフランシスコ平和条約があり、日本の言い分としてはサンフランシスコ平和条約の中で北方領土は日本のものであるとしました。以上の3ヶ所ともあまり人間が住んで居なかった僻地に双方の民族が住みだし次第に資源が豊富になるにつれ、争いが起こるようになりました。
 

2484-DSC00003.jpg

 
 
 本来の話に戻って室町時代を見ると義満の時代に足利幕府絶頂期がつくられています。しかし1410年から1440年の義持の時代からは内紛があり1441年の嘉吉の変では義教が部下に殺され1493年には部下が将軍義澄をたてた下剋上です。この辺りから100年前後が戦国時代です。戦国時代の室町時代に人口が増えているのはなぜか?それは戦国大名は自力で国を創りあげた富国強兵で武士は1日4食の食事をし体格も良く、城下町・門前町・港町・宿場町ができた豊かな時代でした。江戸時代は勤勉・礼儀・識字率が高かったため明治維新の激変にも対応できました。日本の薩摩・長州は薩英戦争・四国艦隊下関発砲事件を経験し頭の切り替えがすぐにでき現在の日本があります。1945年以降は平和な時代がつづいていますが、310万人の死者をだした太平洋戦争は大きな痛手でした。1931年には300万人の満蒙開拓団が食べる為に海外進出を計ったことも、昭和に6000万人に増えた人口を食わせられなかったことからきています。少子化の現在の日本は8000万人まで減少するかもしれませんが、人口が多いだけではなく経済力が豊かになることが良いと思います。
 
 現在から過去にさかのぼり一気に明解なお話をしていただきありがとうございました。
 
(事務局 岸本幸子)
活動内容
このページの先頭へ戻る

Copyright © MIYAKOGUSA All Rights Reserved.