活動内容

第41回研究発表会(12.7.12)

 第41回研究発表会(12.7.12)

◆日 時:平成24年7月12日午後1時15分~午後4時
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.『京都周辺の陵墓巡り』都草会員 岡田英三郎
                   2.『伏見変遷史』監事 林寛治
◆参加人数:48名
◆参加費 :300円   一般参加費 :500円
 
 第1部は今年の4月に入会された岡田英三郎さんの「京都周辺の陵墓巡り」の研究発表です。
本来は古墳時代の勉強や紙について深く調べており、紙については本も出しています。京都を散歩すのに丁度良いと思い始めたのが陵墓巡りです。早期退職後、10年程前より歩き回り全てを歩きつくす事ができました。だたし、墓につきましては参拝出来ない箇所もあり、それ以外は終わっております。陵墓とは、宮内庁が管理する皇室に関わる埋葬地です。京都には桃山監区と月輪監区があります。
 

 

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 陵は歴代の天皇号を有する方が築けます。現在の今上陛下は125代目で、過去124の天皇の内、重祚された天皇が2名いらっしゃるため122の陵があります。墓は親王・内親王・法親王・門跡・王・女王などの葬送地を言います。他にどなたか分からない、陵墓参考地などもあります。一箇所に複数の天皇が祀られている陵もあるので陵墓数としては112になります。しかし古代天皇陵の治定の確かさを見てみるとあいまいなものも多いようです。応神・天智・天武については、問題はありませんがその他の陵は疑問視されます。また陵墓の形もさまざまです。基本的には「天子南面す」になっていますが実際に、参りに行き確認するとさまざまな方向を向いていました。陵は比較的に簡単に行けましたが、墓は草に埋もれ、坂道・山道にあり見つけにくいところも多くあります。その場合は監区事務所に問い合わすと教えて頂けます。
 

 

 

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 典型的な天皇陵には鳥居があります。これは天皇を神格化する為のようです。見学に行くと宮内庁の方と遭遇し質問を受けることがあります。そんな時は「参拝に来ました」と答えると快くして頂けます。陵には注意書きがありますが全て同じ事が書かれています。陵墓にはいろいろありまして、火葬した後を残した、火葬塚というのもあり千本北大路角には後冷泉天皇火葬塚があります。他には分骨所・髪歯塚などもあります。嵯峨落柿舎の西隣には嵯峨天皇有智子内親王墓があります。有智子内親王は漢詩に優れた女性でこの方については改めてお話したいことがあります。中にはとても荒れている門跡墓が霊鑑寺宮墓地にありました。何故この様に荒れているのかと調べたところ、通常宮内庁の方が車で行ける所に陵墓がありますが、こちらは山道を歩いて行く立地だったために荒れ果ててしまったようです。宮内庁が管理することで、調査が出来ないという問題もありますが、全てを管理し残してきたことは良かったと思います。
 

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 陵墓巡りをしていて、たどり着くのに一番疲れたのが西京区小塩山山頂にある淳和天皇陵です。こちらは車を置いて山道を2時間近く登りました。また清和天皇陵も保津峡から片道3.5キロ程あり、谷を降りてから山に上る大変疲れるコースです。陵墓の形も古墳・土盛・石塔・宝堂・宝塔・コンクリート造りと様々な様子が面白いです。参考資料を作る為に、参拝に行く時にはいつも記録紙を持っていきます。思いついた事を書き込んでおくと、後で非常に役立つことがあります。訪問をして記録を取ることによって楽しさに繋がり、自転車や歩きでの参拝が、健康のためにも役立っています。そして通史を知り、歴代天皇の人生も学ぶことができます。延喜式に記載されていて陵墓要覧にない5陵についても丁寧に歩き痕跡を調べていきたいと思っております。
 

 第2部は伏見の事はお任せの林寛治氏です。今回は子供の頃、伏見の畑を掘るとゴロゴロと出てきたという金瓦を持って来て下さいました。火事で焼け焦げた瓦と全く焼けてない貴重な2種類の金瓦を見ながらのお話でした。前回は戊辰戦争があった幕末の伏見あたりまでのお話でした。今回は明治になり産業の中心としてまず思い浮かぶお酒のお話からです。灘の男酒、伏見の女酒と呼ばれる甘口のお酒が伏見の酒です。そんな伏見のお酒の変遷について触れていきたいと思います。
 

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 6万人の武士で賑わった伏見の町も1万5000人は伏見を去り、尚且つ大坂へも1万の人口が移ったことで疲弊しました。明暦3年(1657)には83軒の酒屋がありましたが、1698年には京都への販売が禁止になりました。これは京都地酒の保護と近衛家松園・伊丹酒保護のためです。その後米の不作がつづき年貢米との関係もあり酒屋は28軒に減ってしまいました。明治元年の鳥羽伏見の戦いでは殆どの酒蔵が焼失した後、新しく伏見の町として酒の品質改良に努め組合が結成されました。その努力の結果、明治24年には東京品評会において28点出品中、23点が入賞し最優秀賞に月桂冠が選ばれました。明治41年には伏見の産業の9割は酒醸造が占め、それ以来昭和10年頃までは酒税が国税のトップを占めるようになってまいりました。昭和50年には全国の11.5%の売上高があり、このあたりが日本酒のピークだったようです。
 

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 次は日本陸軍と深草についてです。明治21年には大阪鎮台の大津歩兵9連隊が伏見奉行所跡に設置されました。これが伏見での軍事施設の第一号のようです。明治29年には深草に38連隊が入り軍都としての第一歩を歩み始めました。明治30年に陸軍施設として建設され、第19旅団司令部がおかれていたところに近年創建当時の姿に復元し「まなびの森ミュージアム」として一般公開しています。日露戦争に参加し、後の明治41年には第16師団の本部が現在の聖母学院の所に設置されました。この時に師団街道・第1軍道・第2軍道・第3軍道が作られ、塩小路通から疏水に沿って昔の歴史が残おり、第2軍道の橋には陸軍のマークであった五芒星が刻まれています。陸軍の病院が京都医療センターになり、京都教育大学が歩兵第9連隊の建物でした。本町街道には商店街ができて賑わい、凡そ御苑の4倍にあたる112万坪の伏見の町が軍都でした。
 

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 伏見桃山陵のまとめとしては、明治天皇陵が置かれた経緯についてです。まず明治10年の明治天皇京都大和行幸時に「桃山の土地は秀吉ゆかりの地なので買っておくように」と指示されたことがきっかけだったようです。明治45年に崩御の後、天智天皇上円下方墳に準じ建設がされました。9月13日に青山葬儀場大喪の儀が行われた後そのまま遺体は桃山に到着しました。15日に埋葬が完了しお参りが行われるようになりました。その年の9月18日から11月8日までの一般特別参拝には1日平均18万人が訪れました。当時の京都の観光地は一番が東本願寺・西本願寺、二番目が清水寺、そして三番目が桃山御陵でした。大手筋から桃山御陵までは土産物屋で大変賑わったところでした。当時の桃山駅長は京都駅長と同等の格がありました。明治天皇御陵には蛙石と呼ばれている伏見城にあった石が残っています。伏見の町の変遷についてのお話でした。
 
 
(事務局 岸本幸子)
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