活動内容

第34回研究発表会(11.11.18)

 第34回研究発表会(11.11.18)

◆日 時:平成23年11月18日午後1時10分~午後4時

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1.『官位の仕組み』都草会員 深沢光佐子

      2.『石への信仰』都草会員 浜田浩太郎

◆参加人数:34名

◆参加費 :300円   一般参加費 :500円

 

 深沢光佐子さんに「官位の仕組み」について11枚のレジュメに沿って詳しく説明して頂きました。官位について調べるきっかけになったことのひとつに、源氏物語を読んだ時に名前を書かないで位で書くのかなと思った事があります。光源氏は源の光さんの話かな、と読み始めてみると頭中将が出てきます。この人は名前が出てきません。光源氏の親友の御曹司という設定ですが見た感じ公卿の名前かなという感じです。つぎに頭弁がでてきました。これは弁グループのトップかな、と思う程度でした。数年前に都草会員から源氏物語の講義があり、その時にある方が質問をされて「殿上人」はどの位の方ですか?という質問がありました。そのことから位に興味を持っている方もいらっしゃることに気づき位について勉強をしてみようと思われ、本を読みまた様々な講義を聴き解りやすくまとめて下さいました。

 

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 官位とは官職と位階を併せたものです。「官位相当表」を見ると横ラインが官職で縦が位になります。位を先にもらって位に相当する職業に就く仕組みになっています。位は30位階あります。親王・王・諸臣そして神にまでも位を付けました。親王の位は品位(ほんい)で1~4品まであります。品位のない親王は無品(むほん)親王と呼ばれます。神にまで位を付けるのは本末転倒のように思いますが、三代実録によると貞観2年に清和天皇が滝の神様、伊予国の従五位上の滝神に従四位を授けたとの記事があります。朝廷の身分として神様にも位を授けました。正一位という位は殆どが亡くなった方に与え長い歴史の中で生きている人に殆ど与えていません。三条実美が授かりましたが御臨終になる寸前でした。皆さんがご存じの正一位は神様だと思いますが稲荷神社に行くと正一位稲荷大明神とあります。

 

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 聖徳太子の「冠位12階」(603年)が解りやすいです。徳・仁・礼・信・義・智の6階級に各大小の別をつけ12階級としました。国が律令国家として統治する場合は位を付けた方が管理しやすいからだと思います。冠や衣服の色分けで、一目で分かるようにしました。のちに「八色の姓(やくさのかばね)」の制定で古い貴族制度を壊し、新律令制の下で貴族制度を作りなおそうと試みました。その後、大宝令・養老令で整備され太政官制で太政官・神祇官が定められましたが実質的行政機関としては太政官に権力が集中しました。現在は、亡くなった方への追賜、昇叙のみで位階の所管は内閣府大臣官房人事課になります。律令制のもとでの仕組みは太政官直属の事務局として少納言局・左弁局・右弁局の三局がありました。平安の貴族というのは歌を詠んで管弦を聴きゆったり優雅で時間があるイメージがありました。が実はそうではなく、結構大変で猛烈サラリーマンのようでした。特にエリートと言われる「近衛舎人」は国の仕事の他にさまざまな能力が求められました。警護をしていたので武芸ができないといけない。馬に乗り、楽器が扱え、舞・唄・書もでき、尚且つ容姿端麗でなければいけない。とても大変だったようです。枕草子の中にも・・・雑色の蔵人になりたる、めでたし。・・と参議へ進む登龍門をつづった個所があります。位は自分や周りの者から一生懸命に働きかけて必死になって取りにいっていたことが枕草子からわかります。

 

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 除目議という官職の任命を決定する会議は天皇の御前で公卿が集まって行います。天皇を助けて諸政を総理する「関白」は豊臣秀吉・秀次以外は藤原一族が占めていました。また小野小町の所に通った深草少将は従5位の下という少将の位の人です。各省の役人のランクの呼び方は違いますが4段階に分け4等官制度といいます。源義経のことを判官といいますが、上官・次官・判官・主典は枕草子にもつづられていました。判官は検非違使を兼ねた兵衛尉のことです。官職名は中国の漢名をもとにつくられていて、漢名が格調高く天皇の詔勅でもしばしば使用されていました。太政大臣は太閤・大相国・大師と呼ばれている方で相国寺は足利義満が太政大臣になったのに因みます。左右近衛大将を幕府(もののふ)といい本来は中国戦国時代に王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地のことです。1190年源頼朝が右近衛大将に任ぜられ鎌倉に開いた「もののふの府」がやがて幕府(ばくふ)と呼ばれるようになりました。平安時代の公卿がたどった典型的な出世コースは、侍従→兵衛佐→近衛少将→近衛中将→参議でした。最後に鷹・象・猫に従四位・五位が授けられたお話が面白かったです。
目指そう従五位です!


 第2部は浜田浩太郎さんで「石への信仰」です。1回目は(風水について)・2回目は(菅原道真公はどこで生まれたか?)につづき今回3回目の発表です。今回のテーマーの石はご祭神や神話との関連より表示物の一つという視点からお話を進めて頂ました。奈良県の山添村である事件が起こり、イワクラ学会が出来ました。山添村は巨石信仰の村で巨岩がいっぱいあります。数年前に7つある巨岩を爆破で処分が行われました。そして最後に最も大きな岩を爆破するときに予算がなくなり爆破できなかった巨岩があります。後にその巨岩が大変重要な信仰岩であるという事がわかりました。このように石に対する知識がなかったことがあり、これをきっかけにイワクラ学会が結成されました。

 

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 山梨県には「丸石神」という信仰があります。丸い石の中に神様が入る、という考え方があります。そして石は成長すると岩になります。君が代にも「さざれ石のいわおとなりて・・」とあります。石が成長する段階で割れて中から神様が出てくる。というとらえ方があります。石にはタマがこもり不老不死の象徴です。そして石は境を作るという事で千引岩を置いて封じこめた神話もあります。そして石は宇宙の一部の大地です。隕石が空から降ってくるのは脅威な事でした。そして空から降りてくるものは神様が降りてくるという崇敬の念をもっていました。また京都は風水の聖地で神社などは一直線で並んでいます。聖地と呼ばれるエルサレムに岩のドームがあります。樹木は燃えて無くなりますが石は残ります。石が残っている状態が聖地であるという様子を表しています。
しかし京都の場合は若干違ったところがあります。枚方には磐船神社があります。神話の世界ではニギハヤヒが天から降りて来ました。その時に乗ってきた船が天岩舟です。天岩舟をあらわしたものが磐船神社です。

 

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 それに比べると京都の石は小さいです。松尾大社の磐座や弁慶石や水火天満宮の登天石など小ぶりです。石がある場所を調べてみると京都の場合は川の流れに沿って石があります。登天石は動かして持ってきたものです。元の場所が分からない石が多いです。神仏習合の石が京都の特徴でして知恩院の瓜生石、苔寺では一つだけ苔のない石がありしめ縄が張ってあります。お寺の石に神様が現れるのが面白いと思います。活断層の近くには石が多い。活断層が動くのを止めるようにスサノオノミコトが祀られています。天から降ってくる隕石はかなり多いと思われます。昔から残っている地名は忘れられないようにするために残しています。青龍大権現を祀っている清滝のように「その場所で神が生まれた」「その場所で神が災いをなすものを滅ぼした」という話があります。最近、神話はかなり少なくなってきました、が来年は古事記1300年になります。日本書紀は捏造されたといわれていますが、日本書紀の神々は人の形をしていますので親しみやすいです。名前が土地の力を表す。表すだけでは忘れてしまうのでそこに石を置きました。このように方式にして考えると分かりやすくなってきます。

 

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 現在はパワースポットブームで若い方はよく出歩いています。パワースポットにも石があります。神社を巡る時は式内社や平安遷都以前の古社が重要になってきます。鞍馬にある貴船神社にはクラオカミが祀られています。日向大明神はアマテラスオオミカミが祀られています。月読神社はツキヨミノミコトを祀っています。神々の名前はその土地をどのように表しているのか。の例としては八坂神社・粟田神社はスサノヲノミコトを祀っていますが出雲の神で硬く、上質の土地です。スサノヲノミコトを祀っていると土壌が良いという意味です。神様の意味を調べて神社をみるとおもしろい見方ができると思います。最後には石笛を吹いて頂きました。香川県讃岐屋島は石の産地でもあって、そちらで採れたようです。石笛は場を静める働きや神おろしの笛といわれています。吹くことによって神事奉納するという事です。息を吹き込むことによって自分の心を吹き込むことができます。ピュ~♪:♪:♪
石笛を触らせて頂き重さにビックリでした。ありがとうございました。
 

(事務局 岸本幸子)

 

 

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