活動内容

第33回研究発表会(11.10.20)

 第33回研究発表会(11.10.20)

 

◆日 時:平成23年10月20日10分~午後4時

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表: 1.『嵯峨祭の変遷』 古川 修氏

       2.『軒下に魅せられて』 都草理事 中江好喜

◆参加人数:48名

◆参加費 :500円   一般参加費 :700円

 

 第一部は古川修さん著『嵯峨祭の歩み : その起源・構造・変遷』の本に基づきお話をして頂きました。前回は会員の皆様に沢山の本をお求め頂きましてありがとうございました、とのことでした。
 現在の嵯峨祭りという祭りはマイナーなお祭りです。江戸時代までは有名で特殊な祭りでした。現在と江戸時代ではかなり違うという比較表を作って頂き、スライドと併せてのご説明でした。現在の祭神は愛宕神と野宮神の2つの神様を同時に祀っています。江戸時代も同じだったようです。

 

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 祭りの性格としては地域の祭りですが2つの神様を祭るところが変わっています。現在では5月第3日曜日の神幸祭、5月第4日曜日の還幸祭で賑わっています。江戸時代は4月の中の亥の日に行われ、一日だけのお祭りであったようです。明治以降は太陽暦に変わったこともあり今に伝わります。
 祭礼の範囲は嵯峨学区29自治会範囲に広がっていますが、江戸時代は上嵯峨のみだったようです。現在の主催者は嵯峨祭奉賛会ですが、江戸時代は大覚寺でした。江戸時代の実行主体は清凉寺が主体となって行っていました。費用負担者は現在、嵯峨学区住民が献金しています。過去はわからないようですが江戸時代の末期には住民負担になったようです。祭りに参加する方は現在では約1000人で殆どが神輿を担いでいます。剣鉾が5基に対し100人参加します。非常に重たい物なので交代していきます。昔は地域も狭かったので少数だったと思います。
 神輿は愛宕と野宮の2基で形が違います。最近では子供神輿が2基追加され、嵯峨小学校の生徒が担いでいます。剣鉾は現在5基ですが嵯峨祭絵巻に載っているのは3基でした。現在の風流は二頭の獅子と稚児行列が後につづきます。過去は山車が出てその上で狂言をした記録もあります。1419年には風流ではないですが約1000人の武者が供奉したようです。

 

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 スライドの地図で愛宕山・大覚寺・清凉寺を指し清凉寺前の御旅所から出発する模様を語って頂きました。江戸時代の御旅所は清凉寺の境内にあったようです。天龍寺の北側には野々宮神社があります。今は大覚寺の門前でお祓いをして境内に入り法要したのちお昼ご飯をたべます。その後、丸太町通に出て西に行きグルメシティーで折り返し戻ってきます。写真スライドで大覚寺の和尚さんがお祓いをしている所に、お坊さんと神主が並んでいる様子を見せて頂きました。江戸時代は神仏混合で入り混じった関係が良く解ります。神様が乗っている神輿をお坊さんがお祓いをする面白い様子です。
 嵯峨祭りの鉾は非常に大きく重心が上なので鉾差しが難しい様です。ひねりを加えてカンカン音を出すのが難しく各町内では後継者の育成が大変です。渡月橋から御旅所に戻る道中がハイライトで、先頭が愛宕神で次に野宮神がつづき神輿が盛大に担がれます。重さは1トン程度のようで、神輿のてっぺんは愛宕神が鳳凰で野宮神が擬宝珠です。最近解体大修理がおこなわれました。
 嵯峨祭りの特色は2つの性格の違う神社で行われることです。愛宕山は火伏の神で古くからの信仰があります。野々宮の神様は天照大神でして奈良時代から天皇の即位ごとに未婚の内親王斎宮選ばれて伊勢神宮に奉仕するまでの1年間、野々宮で過ごします。他には朝廷と密接な関係がありました。また鎌倉末期の嵯峨は洛外第一の衛星都市でした。大覚寺や天龍寺などの大きな寺院があり、酒屋や土倉があり民間資本が充実してお金が沢山ありました。人・物・金の地域力が集積されていました。

 

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 室町初期の嵯峨祭りの文献上での最初の記載は『康富記』『看聞日記』です。1419(応永26)年4月25日条には「この日の嵯峨祭は、史上最も大規模で賑やかであったが、千人もの武者が行進する不気味な面もあった。(その他多数の風流)」とあります。このことから嵯峨祭りの歴史は600年以上あることがわかります。嵯峨祭の関係組織はすべて皇室関係であり、その中で大覚寺が最上位で主導者と考えます。江戸初期の嵯峨祭絵巻をスライドで見せていただき当時の祭りの模様が良く分りました。本日見せて頂いた嵯峨祭絵巻はアイルランドのチェスター ビーティー図書館で所蔵しております。アメリカの富豪が2ヶ月程関西に滞在していた時期に買い集めた美術品の一部のようです。古川氏は図書館の館長に直接のメールでのやり取りでデーターを入手されたようです。さらにアイルランに出迎い実物を目にされてきました。実物はかなり綺麗なものだったようです。嵯峨祭りに対する情熱を強く感じました。
 


 第二部は中江好喜理事です。女性とお酒と人前でお話するのが苦手です!のご挨拶でまず、大爆笑の会場です。本日のお話は古建築の基礎パートⅢ◆軒下の美しさに魅せられて◆です。一番ややこしい部分です。  前回は屋根や瓦についてでした。その重たい屋根を支えているのが軒下です。軒下は荷重を一点に受けないようにするためどのように分散するか?それと美しさが求められています。軒下を理解すると古建築の八割が分かってきます。なので解りやすく説明をしていただけるとのことでした。古建築は優れた芸術作品でもあります。作品を正しく理解するためには実際にみて最低限の知識を持たないと駄目です。

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 建築物には3種類+1の建築様式があります。和様・禅宗様・大仏様でもう一つ折衷様があります。和様も全て中国から入って来ているものです。菅原道真の時に遣唐使を廃止してから国風文化が発達しましたがその時までに中国から入った物を和様と言っています。鎌倉時代には東大寺の大仏殿が焼打ちにあい復興するために建てたのが大仏様です。禅宗様に比べ合理的・経済的に建てています。現在大仏様は少ないです。大仏様の円柱の特徴は徐々に細くなっている粽です。唐様の円柱は上と下が細くなっています。鎌倉時代後期からこの様式が出てきています。和様の円柱は上だけが丸くなっています。
 エンタシスのある円柱は徳利形になっています。これは飛鳥時代のものです。奈良に行くと多い柱です。エンタシスはギリシャから来たものです。柱には面取りがされています。几帳面、唐戸面取り、入隅、胡麻殻じゃぐり、大面取りの5つがあります。大面取りは時代が下がって来るに従って幅が小さくなってきます。大面取り以外は禅宗様です。胡麻殻じゃぐりは四条烏丸の銀行の円柱で見られますが、木造で現存するものは無い様です。ややこしいのが斗栱です。斗栱は組物といい柱の上にあって軒などを支えるものです。四角形の斗と長い形の肘木を組んで構成します。斗はマスともいいます。お酒を計り売りしたマスです。肘木は腕の肘に似ています。マスと肘木を組み込んだものが斗栱です。軒下の組物は前へ前へ前へ出ます。これは屋根の一番近い所の丸桁を支えます。前へ前へ前へ出るのが三手先で丸桁を支えている三本の柱を三ツ斗と言います。一つだけ出ているのは出組といいます。二つ前へ前へ出ているのが二ツ斗です。

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 ホワイトボードに絵を書き分かりやすく説明していただきました。四手先は言いますが四ツ斗とは言わず、連三斗と言います。これ要注意です!ツレミツド!と読みます。重たい物を分散しそして庶民の家とは違い非常に軒が深いです。深い軒を支えるために外に外に出しています。また、亜麻組と詰組とがあります。
 違いは柱の上だけに三ツ斗が載っているのが亜麻組です。こちらは和様です。詰組は柱と柱の間にも三ツ斗が載っています。禅宗様でお金の掛かった建築になっています。平安前期の斗の背は高く、奈良後期になると徐々に低くなってきています。禅宗様に鬼斗があります。45度に出る肘木を受けるための斗です。45度というのは斜めに出るという意味です。次は軒廻です。軒廻の漢字の読み方は難しいので、まずは読み方からです。丸桁(がんぎょう)・支輪(しりん)・尾垂木(おだるき)・垂木(たるき)・虹梁(こうりょう)・木鼻(きばな)・手挟(てばさみ)・持送(もちおくり)・束類(つかるい)・蟇股(かえるまた)です。
 丸桁は斗栱の一番先の上にある真っすぐの横材で屋根廻りを支えています。支輪は軒裏や折上天井の斜めに立ち上がる部分で湾曲し竪木(たてき)を並べ裏に板をはります。文章での説明は分かりにくいですが、図面付の解説なので建物のどの部分なのかがはっきりと分かります。軒には一段階・二段階がありほとんどが二段階です。飛鳥時代が一軒(ひとのき)で断面が□の垂木が並んでいます。奈良時代になると二軒(ふたのき)になります。奥にある垂木が○で外にある垂木が□です。地円飛角と呼び、奈良に行くと沢山見られます。鎌倉時代からは奥にある地垂木も□になり、京都のお寺は共に□で方形面取です。但し、平安神宮は飛檐垂木も地垂木もどちらも○です。奥にあるのが地垂木で軒のところまできているのが飛檐垂木(ひえんたるき)を覚えましょう!
 三軒があります。それはどこでしょうか?仁和寺の金堂です。御所の紫宸殿を移築しています。中に飛檐地垂木がもう一段つき三軒になっています。三軒があるのは京都では佛光寺の本堂です。奈良では興福寺で見られます。三軒はお金が掛かるのでめったにありません。扇の様に垂木が斜めに広がっていく扇垂木です。

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 次は虹梁についてです。虹梁は柱と柱の間に架けた梁でその形が虹のように反っているものです。二段の虹梁を蟇股で支えているのが二重虹梁蟇股式です。側柱と内柱とを繋ぐ虹梁が繋虹梁(つなぎこうりょう)です。  エビが跳ねたような虹梁を海老虹梁といい禅宗様でよく使われています。海老虹梁で一番お尻が上がった所を鯖尻(さばしり)と言います。なぜサバなのかは分りません。手挟は向拝柱の内側に上の垂木にそってほぼ三角形の彫刻物を取り付けたもので鳥が糞などをして汚れると大変なのでよく網で覆われているところです。すばらし彫刻が見られる箇所ですね。束類にも間斗束・大瓶束・蟇股があります。
 束も奈良時代は真っすぐだったのが鎌倉時代になると派手な装飾模様がついてきます。絵や写真で説明をして頂いてよくわかりました。仁和寺の門を入り左側の拝観料を払って入ってすぐの所に上を見ると凄い大瓶束があります。仁和寺の方は蕪束と言われます。野菜のカブラの様な形です。
 蟇股も奈良時代は板蟇股でしたが平安後期の宇治上神社本殿より刳抜(くりぬき)蟇股が現れ豪華な装飾が施される様になりました。室町時代には中の装飾を変えるようになり荷重がかからない所にも装飾として使われる様になりました。プリントで予め基本の説明を受けてから写真画像でポイントを大きく写したスライドで確認ができ、建物をじっくり見る面白みが増えました。ありがとうございました。

 

(事務局 岸本幸子) 

 

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